鹿島美術研究 年報第8号
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し,夜は夜で連歌ならぬ連画という遊びに興じ早暁に及んだという。この古画の記録模写に精力を注いだ(今なお多くの「過眼録」がのこる)文晟は,実は『骨董集』に資料を提供した人物でもあったのである。文麗門の喜多武清はさらに梢極的な協力関係にあったようで,『近世奇跡考』『骨董集』に資料を提供するばかりでなく,模写・縮写にも参画している。とくに文化元年,武清は『近世奇跡考』ばかりでなく,京伝の読本『優曇華物語』にも挿絵画家として活躍しているのである。以上のように京伝をめぐる画人には,恙斎・文罷・武清がいた。これらのいずれの人物をとってみても定信の影が見え隠れしている。そして武清は寛政9年の旅に白雲に随行した人物でもあった。定信をめぐるこのような二重三重の人間関係は,当時の洋風画のみならず風俗画の成立の背景を理解する上で大きな意味をもってくるに違いない。定信の絵画観の反映はどの分野まで及んでいたのか。また当時の考証趣味は何によってもたらされたのかも今後問われねばならないだろう。-123

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