鹿島美術研究 年報第8号
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cm平安時代後期)は,千光寺の千手観音像に面部表現がよく似ており,かつ二腎を頭に千手観音像をモデルとして造像されたもので,面相はよく似ているがやや穏やかで,衣摺線なども浅く整えられている。また,②の十一面観音像の光背(後補)には,安元元年(1175)三月建立の墨書銘があり,本像はほぼこの時期に造像されたものと考えられる。①,②の像は,すでに調査がおこなわれたことがあるが,特に①について像内に銘文が記されている可能性があったため,あらためて脚下部から小型ビデオカメラを入れて調査を行ってみたが,像内の胸部や背部には銘文などを認めることができなかった。なお,阿蘇郡に隣接する菊池市・東福寺(天台宗)の木造千手観音立像(像高177.6上に高くあげ掌上に化仏をかかげた清水寺式千手観音像である。千光寺像も脇手の形などから清水式観音像であった可能性があり,また,すでに述べた白水村・松の木観にも清水寺式千手観音像(像高約180cm室町時代後期)がまつられている。今回の阿蘇地方での調査では,他に清水寺式観音像を確認することはできなかったが,この地域で中世に,複数のこの形式の千手観音像が造像されていたことは注目されることである。また,東福寺像と千光寺像は,面相部の造形などがよく似ており,阿蘇山系を中心にした仏師集団が活動していたということも想像される。今後も千光寺像などを念頭におきつつ,平安時代後期〜鎌倉時代この地域の造像活動を明らかにしていきたい。報恩寺の木造十一面観音立像報恩寺(曹洞宗)は,熊本市内の寺院で,阿蘇地域とは直接の関わりがないが,この調査の過程で,本尊木造十一面観音立像(像高152.5cm)の像内から納入品や銘文が発見されたため,ここで報告したい。報恩寺は,曹洞宗寒巌派の大慈寺(熊本市)の末寺である。寒巌派とは,後鳥羽天あるいは順徳天皇の皇子で,通元禅師の弟子であった寒巌義手(1217■1300)によって開かれ,大慈寺を中心に九州や東海地方にひろがっている。本像の面貌は,頬に張りがあり端正に彫出されており,体部も量感のある堂々たるもので,胸元に裳の紐の結び目をあらわしている。また,衣文は非常に深く彫られ,ことに腹前の部分などは衣文の「波」も太く彫られている。本像の像内納入品の銘文によれば,本像が正元2年(1260)に寒巌義手によって造像されたことがわかる。ま126-

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