鹿島美術研究 年報第8号
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⑯ 漢代画像石の世界とその展開研究者:早稲田大学文学部非常勤講師杉原た<哉研究報本研究は,漢代画像石を新たな視点から解釈しなおすとともに,それが後世の美術にどのような影閻を与えたかを東西交流や日中交流の歴史をからめて考察することを主眼としている。今回は,この趣旨によく適合するテーマとして,中国古代の神「神農」の肖像画を選び,さまざまな角度から検討を加えた。その成果は,既に,平成二年十月の日本中国学会大会に於いて「神農図の成立について」という題で,また平成三年三月の早稲田大学美術史学会に於いて「俵屋宗達筆神農図の粉本について」という題でそれぞれ口頭発表を行っており,現在は,それを論文として発表するために執筆中である。ここでは,その内容を筒略に述べることとする。神農は,中国古代では,三皇のひとりに数えられる聖帝であり,純粋な農業神であった。その姿は,山東省嘉袢県の武氏祠という後漢時代の画像石中に見ることができる。伏義・祝融の画像に続いて三皇の最後に描かれる神農は,未とよばれる農具を持ち,田畑を耕す農民の姿で描かれている。これ以外にもう一種類の神農像が漢代画像石の中で既に指摘されている。さらに,私が新種の神農像ではないかと考えるものも存在する。中国古代に,なぜそのように多様な神農の姿があるのか。それは,どのような思想的背景の反映であるのか,また,いかなる過程を経て近世の神農像に統一されていくのだろうか。「神農」という農業神の名が中国の文献に現れてくるのは,戦国時代からと言われている。当時,諸子百家中の農家の人々が神農の教えを広めて歩いていた。神農は未相という農具を創作して人々に農耕を教え,交易市場を開発したという。武梁祠の画像は,この素朴で原初的な神農の姿を忠実に描き上げたものといえる。神農を三皇の一人とする考え方も漢代から始まったようである。当時の三皇の説は多数あるが,どの場合にも,伏義と神農の二人は必ず含まれ,この両者は数ある聖人の中でも特に重視されていたことが分かる。本来,純粋な農業神であった神農は,時代が下るとともに農業神としての色合いを薄め,次第に本草の祖・医薬の祖として変質をとげる。前漢時代には本草の祖としての神農観が確立されており,『漢書』芸文志には神農の名を冠した書名がいくつか見ら-149-

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