鹿島美術研究 年報第8号
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れる。そのような状況からして,後漢時代の画像石の中に本草の祖としての神農が描かれていても不思議ではなく,すでに,i斤南画像石に見られる人物像を神農とする説が出されている。このように,漢代には,君臣並耕の純粋な農耕神だけでなく,本草の祖としても次第に定着しつつあり,神農のイメージは複雑なものとなったが,この時代,さらにもう一つの新たな要素が付け加えられる。神農は牛首,という説である。この説は,おそらく後漢ごろの成立で,晋・皇甫謡『帝王世紀』では神農は「人身牛首」,つまり体は人間で頭は牛という。この説は本来的なものではなく,神農が三皇の一人に組み込まれる際に付け加えられたものであろう。人首蛇身という奇怪な容貌の伏義を継ぐ者として牛首が考えだされたらしい。神農と牛の結びつきは,もちろん耕作動物として牛が用いられていたことによる。中国で牛耕が始まったのは春秋時代と言われるが,盛んになるのは漢代の頃とされ,事実,漢代画像石には牛耕を描いた図がよく見られる。このような状況から判断して,君臣並耕の農業神や本草の祖としての姿だけでなく,頭が牛で体が人間という神農の像が漢代画像石やその後の絵画の中に描かれている可能性は十分にある。私は,その有力候補として,まず六世紀の高句麗壁画古墳に見られる一神像をあげたい。高句麗の都があった吉林省集安で発見された五盗墳四号墓のものである。この古墳の内部は,羨道から玄室にいたるまで壁画で埋め尽くされており,問題の神像は,玄室天井の四隅を支える梁に描かれている。報告では,それを牛首人とよび,その左隣りに人身龍尾の日月神,右隣りに松明を持った飛仙が描かれているという。しかし,日月神は明らかに伏義女蝸である。この五盗墳四号墓は高句麗のものではあるが,龍・乗鶴仙人・星振図を描くなど,壁画の内容や表現は完全に中国的であり,中国思想を基盤にしているから,日月神よりは,もうひとつ踏み込んで伏義女禍とすべきであろう。松明を持つ飛仙は隧人と解釈する意見がある。中国的な解釈を押し進めるならば,この飛仙を六世紀における隧人表現の一例と考えることは十分可能である。伏義女蝸・隧人という古代の三皇が画面の中に描かれているならば,その間に挟まれた牛首人の解釈も自ずから定まってくる。この像を牛首の神農とすれば,ここには伏義・女禍・神農.隧人が描かれていることになり,三皇の全てが揃うことになる。五盗墳五号墓は規模・構造・壁画ともに四号墓とほとんど同じで,玄室天井の梁に-150

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