2.羽衣を着て仙草を持つ仙人型3.体が人間で頭が牛の人身牛首型は,やはり人身龍尾の日月神,牛首人,松明を持つ飛仙などが,四号墓とほぼ同じ図案・配置で描かれている。牛首人は右手に草を持っており,報告では「禾穂」という。隧人が手に脂燭を持っていたように,この禾穂も牛首人の性格を象徴している。これをもって農事神とする説は穏当ではあるが,伏義女蝸とともに描かれた牛首の農業神は神農と解釈すべきである。私は,五盆墳四号墓・五号墓に描かれた牛首人こそ,牛首型神農の六世紀における遺例であると考える。さて,後漢時代の牛首型神農の例としては,私は山東省費県出土の後漢の画像石をあげる。上半分に矩を持つ人身龍尾の像,下半分に二本の立派な角をもつ牛首人身の神農が描かれている。上の人身龍尾の像は,図像的にみて伏義の単独像である。牛首人身の神農像は,数こそ少ないが古代に存在した。後漢頃から現れたこのタイプの神農像は,おそらく神農像の一つの流れとして魏晋南北朝期に散発的に描き継がれた。それが高句麗にも伝わり,壁画古墳に描き込まれたのである。こうしてみると,後漢時代には三種類の神農像,つまり1.未相を持って田畑を耕す農民型の三タイプの神農像が併存していたことになる。さて,日本の近世絵画に描かれる神農は,もっぱら中国の医薬の神としての姿であった。その図像は概ね定型化していて,草衣を着て,草をくわえ,角の跡がある,という三点を特徴としている。古代の多様な神農像が,近世の像に統一されるまでには,いかなる経過をたどったのだろうか。漢代以降に現れた神農の諸説は,唐代には総合される。また,六朝から唐にかけて本草学が大いに発展したことも考慮しておく必要があろう。そのような状況から推して,唐代には近世の神農図に極めて近いものが作られていた可能性が高い。四川省青城山天師洞の唐・開元十一年(七二三)作と伝えられる神農石像は,頭上の二つの角や上半身の草衣など,近世の神農図の姿そのもので興味深い。次に,極めて興味深い一例を挙げる。明・弘治十一年(-四九八)刊の挿図入伝記本『歴代古人像賛』の神農図である。『歴代古人像賛』は,『三才図絵』の人物図にほとんどそのまま踏襲されるなど,後の同種の挿図本に大きな影聾を与えた。この図を俵屋宗達筆の「神農図」と比較してみると,そこには,神農としての図像的類似以上-151-
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