鹿島美術研究 年報第8号
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のものが見て取れるのである。体の向き,顔の特徴,角の位置,腕の角度など,ほとんど同じといってよい。特に,小指を立てて草を持つ手の形の一致から,両者の関係は決定的である。宗達は『歴代古人像賛』の図を粉本として神農図を描いたのである。宗達の絵の中には,明より舶載された萬暦三十年(一六0二)刊『仙佛奇踪』の挿絵を利用したものがあることは既に指摘されているが,これも宗達と明代版画との繋がりを示す好例と言える。神農図の上部には,明から帰化した王腱南の賛がある。近世の日本には,明清の画譜や絵入りの版本が多数輸入され,絵手本として利用されていた。いまに残る近世日本の神農図の多くは中国の絵入り版本や舶載画を手本としていると考えられる。室町時代末期の雪村も神農図を残している。三角に尖った角や,正面を向いた鼻の穴は,神農が牛首であった名残りであろう。古代に見られた仙人型と牛首人身型がここに合体している。ただし,近世の神農図は,古代の牛首人身型のように立派な角を持つことはあまりなく,出来るだけ人間の顔に近く描かれる。これには,牛首の人物像が,十二支の牛の擬人化像と似ていたり,仏教では地獄の獄卒に当たることなどから,露骨な牛首の表現を忌避する心理が働いていたのではないだろうか。このほかにも,雪村と同時期の官南や,江戸末期の浮世絵師・葛飾北斎をはじめ,有名無名の画家が神農図を描いており,彫像としても湯島聖堂の神農像,台湾に残る神農大帝像などがある。それらについても今後さらに検討を加えて行きたい。152-

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