鹿島美術研究 年報第8号
191/364

るが,それ以上にロセッティ自身が,上述の制作方法を好まなかったためと考える。と言うのも,彼は,生涯を通して戸外制作はほとんど行わなかったし,油彩による細密な描法も,初期の数点を除けば,なされてはいないからである。さらに,この時期のロセッティは,文学的傾向を強め,官能的とも言い得るような,極めで情感豊かな作品を数多く制作している。これらの作品は,初期の厳格な宗教的ないしは道徳的内容を伴う作品とも明白に性格を異にする。しかも,彼はこれ以降,この傾向を顕著に示し,退廃的とも言い得るような作品を制作するに至るのである。従って,ほとんどのラファエル前派研究者がおこなっているように,ロセッティを中心にラファエル前派を考察するならば,彼らの見解とは異なり,ラファエル前派の活動は,1857年以前に終焉を迎えていたと言わなければならないであろう。これに対して,彼同様に初期ラファエル前派の中核を担っていたハントは,思想的にも,また技法的にも,最も忠実にラファエル前派の教義を遵守した。従って,彼を中心にラファエル前派を考察すれば,19世紀末までラファエル前派は存続していたことになる。しかし,彼は1854年には中東へと旅立ち,帰国するのは1856年になってからである。従って,初期ラファエル前派が解体するという危機の時期に,彼は指導的立場を維持することはなかったと考えられる。しかも,これ以降,当時の芸術家に対する彼の影響力は,ロセッティに比べても,極めてわずかであったと考えられる。もう一人の中心人物であったミレーは,ハントともロセッティとも異なる道を歩んだ。初期ラファエル前派の制作方法を最も完成されたかたちで描出し得た彼は,その卓越した技もあって,早くも1853年にはアカデミーの準会員に推挙される。以降,彼は急速にラファエル前派の仲間たちから遠ざかり,アカデミーの画家として活躍した。こうしたなかで,1856年のアカデミーに出展されたく落葉〉は,写生による細密な描法による画面表現によって,彼がまだ初期ラファエル前派の制作方法を保持していたことを示す作品として知られる。しかし,初期作品に顕著であった細部までもゆるがせにしない緊迫した画面構成は,すでに失われつつあることが認められる。さらに,1860年に発表された<黒軽騎兵〉では,初期ラファエル前派好みの悲恋を主題としてはいるものの,道徳的,宗教的内容は希薄となっている。しかも,特語の真摯な表現よりも,後年の風俗画に連なる,一種の通俗的なメロドラマティックな表現が認められる。こうした傾向を一層強めていった彼は,彼ら三人の中では最も社会158

元のページ  ../index.html#191

このブックを見る