風画も自然に幕府の政策に必要な銅版画または地形図のような画風に転じていったのである。(1)寛政半ば頃からの文芸坦の変化江漢以後の風景画は,亜欧堂田善などに受け継がれていたものの,一般の画檀全体から見た場合,洋風表現は衰弱の気運が強く,その新たな発展は浮世絵界という大衆芸術分野にあった。浮世絵界ではこの時期から風景画のジャンルがその主流をなしていたがそれはどういう理由からであろうか。まず,指摘できるのは社会的な背景がある。経済発展による物質の流通と生活範囲の拡大,参勤交代制度などにより,東海道を始め,交通路が発達して旅行者が急増し,各種の旅行案内記や名人紹介書が出版され,地域間の情報がますます交わされていた点が挙げられる。それに,より直接的な原因には,「党政改革」という政治的な変動の影閻である。天明七年,老中に登場した松平定信は器藩体制を補強するための具体策として,一つは農村対策に重点を置き,今一つに幕藩体制の政治的倫理の確立をねらい,そのイデオロギーを中心とした改革の推進を計ったのである。彼は雌藩体制それ自体を危うくしていた貨幣経済を柱とする商業資本の災延を抑制し,本来領主階級を支えていた農業生産を強化しようとして帰農を勧めた。また政治倫理を確立させ,徹底した倹約を強要し,直接旗本の札差しに対する負債に関して棄損令を発した。土地経済擁殴を計ることのような一連の重農主義的な政策とともに,遊里描写を目的とする洒落本を寛政二年禁止したことに代表される暮府の風俗矯正の方針を展開していったのであった。こうした理由により,寛政期の半ば頃から野外の風景が絵の主題として登場していくようになる。い換えれば,安永・天明期における華やかな文化は,極めて都市的・町人的・高踏的であって,いかにも特殊なものであり,局地的であった。従来,浮世絵の世界においては遊廓や歌舞伎の描写が中心であった点からもそのことが判かるが,文学においても談義本・洒落本・黄表紙は実は江戸という局地文学であり高踏文学に過ぎなかった。ところか,文化・文政期になると文芸の版図は大衆的,全国的になる。つまり,人の触りにならないという大衆性が人々に喜ばれた。それに,それぞれの土地の方言や人物を克明に写していたのである。それは一つの国から別の国の風俗を見た場合,2.浮世絵界における北斎と広重の風景版画163-
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