鹿島美術研究 年報第8号
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⑲ 日本の近代彫刻と写真_中原悌二郎を中心として一一研究者:北海道立旭川美術館学芸員越前俊也研究報写真は,その発明当初,技術的な問題を解決していくにつれ,ある面では,絵画の模倣をすることによって,芸術的な地位を高めていった。また,今日,写真が19世紀以降の美術,とりわけ絵画に与えた影需については,様々な角度から研究かなされている。しかし,こうした刻家の作品に与えた影閻,及びその逆に関する事例の調査は,立ち遅れている感が否めない。ロダンと写真家エドワード・スタイケンの影響関係,あるいはプランクーシ,メダルド・ロッソといった彫刻家が,自らの作品の撮影に対して並々ならぬ関心を抱いていたことについての報告がなされている海外の事例に対し(1),日本の作家に関して,この欠を少しでも補おうとすることが,本調査の目的である。明治末から大正にかけて彫刻家になった人々のなかに,美術作品の図版(写真)との出会いが,重要な役割を果たした例を、いくつか挙げることかできる。平櫛田中(1872-1979)は,小間物屋に奉公をしていた少年時代,たまたま買い求めた『国華』(1889年10月創刑)が美術に興味を抱くきっかけとなった。また,高村光太郎(1883-1956)は,イギリスの美術雑誌『ステュディオ』(1904年2月号)の国際絵画彫刻展の記事の中に小さく掲載されていた「考える人」の横向きの写真が契機となって,ロダン芸術の世界へ惹きつけられていく。しかし,日本の近代彫刻家において,中原悌二郎(1889-1921)ほど,作品図版との出会いが強烈であり,それに執着した作家も稀であろう。彼は,まだロダンの名前も知らぬ頃(1907年),夜店で「考える人」の図版を偶然見つけ,それを買い求めた後,嬉々としてその模写を試みたことは中村葬の中原追悼文(「中原君を憶ふ」)によって知られている。また,同文あるいは中原自身の日記のなかには,彼が図書館や丸善で美術書の作品図版に感銘を受けた模様や,夜店で売られていた様々な美術作品の写真を努めて買い求め,大切に扱っていたことを物語る記述が,いたるところで見出される。現在,緑山美術館には,中原悌二郎が遺愛した美術作品の写真133点が保管されている。木箱に納められたそれらは,四切り大のものが大半を占め,それより小さい写真と絵画の影響関係に関する研究に比べ,日本では,写真が彫-166-

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