鹿島美術研究 年報第8号
200/364

も同じ規格の紙に裏打ちされている。緑山美術館には,荻原守衛(1879-1910)が愛蔵した同様の美術作品の写真も保管されているが,それらは大きさや紙質,すなわち図版として、写真が掲載されていた元本の種類が多岐にわたり,中原の愛蔵したものとは好対照をなしている。中心とする古代寺院建築の写真が14点,さらには伎楽面と舞楽面の写真が8点含まれていて,壁画,石塔などの図版を合わせると,日本の古美術に関するものが,全体の四分の三を上回る。ロダンに関しては僅か10点のみである。しかも残念ながら,このなかには「考える人」の図版が含まれていない。従って,現在,隊山美術館にあるものか,中原愛蔵写真のすべてを網羅しているとは言い難いが,石井鶴三(1887-1973)の回想(「中原君と私」)によれば,「それが(中原が)奈良の古美術について,未だ何の知識も持たなかった時分に,買い求められたもの」であるとするならば,すなわち,る人」の図版と相前後して集められたものとするならば,今現在遣っている図版こそ,中原が最期まで愛着を抱いていたものとみなすこともできよう。注目すべきことは,この日本の古美術に関する中原の写真コレクションのなかに,「国華」に掲載された図版が見出されることである。華』は,その図版の撮影,印刷の一切が,写真師・小川一真(1860-1929)の手に委ねられていた。小川は同年,東京都京橋区にコロタイプ製版印刷所を興し,諧調豊かな写真の印刷を可能にした。前年には,宮内省臨時宝物取調局の委嘱で,京都以西二府七県の古杜寺宝物の撮影を行っている。図書頭九鬼隆一の古美術調査に同行したその際には,「同氏の注意にてマグネシウムライトを用い其光輝を利用して速写する」(『時事新報』1888年5月9日)とあるように,製版の面でも,撮影の面においても,日本の彫刻写真は,小川の手によって初めて本格化したといえよう。法隆寺を撮影した横山松三郎ら明治初期の写真師たちによる「芸術の記録」から,入江泰吉,土門拳らに代表される「記録芸術」への過渡期にあったとされる小川の仏像彫刻の撮影は,正面からのアングルを基本としている。しかし,興福寺北円堂の無著菩薩像の写真(『国華』第1号掲載,中原所有)のように,斜め下から写したものも例外的に見受けられ,ある種の彫刻の存在感を今日に伝えている。中原所蔵の仏像写真のうち特筆すべきアングルは一記録性を重視する意味合いもあったのだろうが一仏133点の内訳は,推古から平安にいたる仏像,肖像彫刻の写真が62点,また法隆寺を1889年10月,岡倉天心,高橋建三,フェノロサらによって創刊された美術雑誌『国167

元のページ  ../index.html#200

このブックを見る