1)中原の作品集であると同時に,野島の写真集としての意味合いを持つ3)意識的に一部ピントを外した撮影が行われている像を真横から撮影したものが,しばしば見られることである。そのすべてが小川の撮影したものとは断言できないが,中原愛蔵の仏像・肖像彫刻写真62点のうち,8点までが真横から撮影したものである。こうした写真は,仏像が正面性を重視した造形であることを明らかにし,通常の拝観者には知り得ない,造形的客観的知識を中原に提供していたことが想像される。1918年10月,中原初めての奈良古寺巡りに同行した平櫛田中は,「何処へ行っても,何を見ても突然の感じはしなかったのであろう。恰も旧知に接した如く,にこにこと心静かに観賞して居た」中原を回想している(「中原君に就いて僕の知って居る事」)。自ら語るように(「彫刻家になった動機及びその態度」),熱烈なロダンの信奉者として彫刻を始めた中原の作品は,どうしてもロダニストの系譜の上だけで語られることが多い。しかし,その晩年の仏像への傾斜ぶりを検討することにより,「若きカフカス人」(1918)や「平櫛田中像」(1919)などの理解は見直される必要があろう。中原が亡くなって半年がたった1921年9月,日本美術院はコロタイプ製版印刷による『中原悌二郎作品集』を刊行する。この際,中原の彫刻の撮影を行ったのが,大正から昭和の初めにかけて,とりわけ人物写真の分野で,日本の写真界をリードした野島康三(1889-1964)であった。この作品集に関しては,2)作品を真横から写すなど,撮影アングルが特異であるといった報告をすでに行った(「中原悌二郎と野島康三」北海道立旭川美術館紀要第2号所収)。今回の調査で明らかになったことは,ひとつには,この作品集に,平櫛田中が「犬馬の労」を注いでいる(編集後記)ことなどから,現在の彫刻写真集の感覚からすれば,特異に見える作品の真横からの撮影も,平櫛や中原に馴染みのあった『仏像彫刻』の図版では,平生から行われていたということである。すなわち野島は,こうした先例に倣った可能性がある。また,ひとつには,「岸田劉生ばりに,顔の毛穴や細やかな陰影すらもくっきりと写しとる」と見なされている1920年前後の野島の肖像写真は,子細に観察すれば『中原悌二郎作品集』に見られるように,周辺部でピントが外れていることが,確認された(2)0野島のこうした軟焦点への志向は,その後の彼の美術品撮影活動においても続けられる。すなわち,1922年,柳宗悦の依頼で『白樺』9月号に掲載した朝鮮陶磁器の撮168-
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