めに払った努力を物語るものである。しかし,それと矛盾するように思われるのが,四人の娘達のモデル問題である。そもそも,<庭の娘達〉の制作過程についてはく草上の昼食〉ほどの参考資料がなく,画家の制作の道程を再構成できない。これほどの大作に下絵はなかったのだろうか。(<草上の昼食〉には,最初の全体構想を示すラフな素描,人物の油彩習作,最終作の構想を示す油彩習作等が残っている。)風景と人物はどんな風に画面を埋めていったのだろう。四人の「娘達」はどのように組み合わされたのだろう。彼女達は,客貌の特徴から少なくとも手前の三人が,恐らくは四人全員が,後にモネの妻となるカミーユをモデルとしている。<草上の昼食〉では,やはりカミーユや友人の画家バジールがそれぞれ複数の人物のモデルとなっていた。しかし,その人物たちは油彩習作でまず猫かれ,全体の構図に当てはめてアトリエで組み合わされた。それに対し,<庭の娘達〉は戸外で,おそらくは大きな画布に直接制作を始められたと考えられている。モネには同時に四人の娘達は見えていなかったし,一人四役はそれ自体ありえない光景である。モネのリアリズムは,光の効果と視点に関しては「見えるがまま」に固執するが,モデル使用に関しては一人四役を許容するものだったと言える。モネは何らかの役割や個性を娘達に求めていなかった。ジェリコーの「メデューズ号の筏」の人物達は無名の市民だが,その苦難の末の救済の瞬間,彼らは英雄として描かれている。クールベの描く人物たちも無名ではあるが,「石割る人」は職業モデルを使わず本物の石割り人夫にポーズさせたし,オルナンの住民は記念碑的画面に自らの姿を残すためにクールベのモデルとなった。それに対し,娘達はこれほど大きな画面にありながら,そこにいる理由がなく,アイデンティティーを持たない。彼女達の間の差異は洋服や帽子に還元されてしまった。この作品は,画面の大きさに見合う主題を欠いている。この主題性のなさは,時に「現代の歴史画」と呼ばれるクールベらのリアリズムの大作よりは,風景画というジャンルに通じるものを感じさせる。ところで,そもそもモデルにポーズさせるということ自体が虚構である。光の効果や視点は,ある程度の誤差の範囲内で一定を期することができる。ところが時間を止めることはできない,画面の中では時間は固定しているというのに。制作をする限り時間は経過して行き,モデルはポーズせざるを得ない。これは,絵画のリアリズムにとってほとんど克服不可能な矛盾である。対象を観察するのに要する時間と,それを画面に定着するのに要する時間には非常なギャップがある。しかもそのギャップは画174-
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