面の大きさに比例して拡大して行く。この時間的ギャップは,おそらく19世紀後半には多くの画家によって認識されていただろう。そして,それに対して彼らがとった方法は,三つに大別できよう。① ギャップがないかのように瞬間を偽装する。ヴィジョン」がその典型である。時間的ギャップを意識するとき,リアリズム絵画にとり最大のライバルは写真だっただろう。19世紀中頃に発明された写真は,シャッター・スピードが短くなって瞬間が瞬間の内に定着されるようになり,人々はカメラという箱を通して現実が印画紙の上に等価に再現されると信じることができた。それに比べると,絵画は瞬間を描いたかのように偽装するしかない。ドガ達の作品は,モネのような風景画系列の印象派画家に比べずっと克明に揺き込まれている点で,「写真的」である。さらに,70年代に彼らが描いた都会生活は,前景の人物が画面の端で切断される不安定なスナップショット風の構図の新鮮さにより,風景を描く画家より彼らの方が革新的なのではないかとさえ思わせる。② 絵画が瞬間の偽装から成り立っているという虚構性を暴露する。絵画制作にともなう虚構性に敏感だった画家の代表はマネだろう。彼はたとえば,女性に闘牛士の格好をさせ,書き割りのように猫いた闘牛場に立たせた。彼女は闘牛士ではなく,その扮装をしてポーズするモデルに見える。マネは,絵画とはそのような作りものだと暴露すると同時に,ポーズしていると示す限りにおいて嘘はついていないのである。<草上の昼食〉でも,マネの作品の裸婦と羞衣の男性という組み合わせの不自然さは,モネには無縁のものである。マネの作品では,描かれている人物がしばしば眺むように絵の前の観者を見つめている。そのとき結ばれる作品と観者の間の複雑な関係は,印象派には見られないものである。翻ってモネは,絵画の虚構性をマネほどに暴露しようとはしなかった。カミーユを一人四役で使った最大の理由は,おそらくモデルを雇う為の資金不足であり,四役をしているということを彼は強調しない。③ 偽装を放棄する。これは最も過激で根本的な方向であるが故に,実現は容易でない。<庭の娘達〉以後のモネは,若干の例外はあるものの,もっばらより小さなサイズの風景画を制作するようになる。印象派の風景画は,現場で比較的小さなカンバスに短時間で制作するから,時間的ギャップは縮まっただろう。とはいえ,これは物理的にギャップを縮めただけで,その点だけから言えば結局写真にはかなわないということになる。ドガやカイユボットの「写真的-175-
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