決定的変化は,キュビスムの出現により一点消失遠近法に基づく空間が崩壊するのを待たねばならない。キュビスムによる多視点の導入は,各視点から見る間に経過する時間を画面に織り込むことでもあった。それは,何がリアルかという概念に関わる一つのパラダイムの変換だった。どれほど斬新に見えようとも,ドガ達の試みからはこの変化は出現してこない。彼らの作品は,近年議論の的となっているように写真に影聾されたのであれ,あるいは写真以前に存在していたのであれ,カメラで撮影した場合同様一点消失遠近法に則っている。人物の大胆な配置や建物などが画面奥への極端な収束を暗示するとき,遠近法の存在を強烈に感じさせるのである。彼らの作品はルネサンス以来の空間構成原理を抜け出していない。遠近法を用いた絵画は開いた窓からの眺めにたとえられることがあるが,視点が一つに固定させるだけでなく画中の時間もある瞬間に固定される。<庭の娘達〉では,モネも明らかに作品を単一の視点と時間に縛ろうとしていた。<庭の娘達〉における彼のそうした努力は,リアリズムの極致とも言えよう。以後彼はその種の絵画をあまり描かなくなっていく。人物は小さくなって点景として登場することが多くなり,カミーユを描く場合も等身大に近いということはなくなる。人物が比較的大きく描かれている場合はほとんどが妻や子供であり,肖像的性格が濃厚となっている。この変化を評して,<庭の娘達〉以降のモネはサロンでの成功をあきらめたとか,その種の大作は彼の気質にあっていなかったと説明されることが多い。しかし,モネはリアリズムの限界を知ったのではないだろうか。風景画への移行は,画面が小さくなって時間的ギャップが縮まった以上の結果をモネの絵画にもたらした。風景画では,事物の輪郭が不鮮明になって線描より色彩が遠近を示す役割を担い,一点消失遠近法の収束線を暗示することが少なくなるのである。まだ遠近法の世界とは決定的に離別していなかったとはいえ,彼は時間的ギャップを自己の内面に吸収したといえないだろうか。観察する主体である自己が得る外部の視覚的印象こそが,画面に定着されるべきなのである。それは主観的印象の世界であって,彼の目に「見えるがまま」ではない。しかし,その作品に描かれているのはある瞬間の姿でしかなく,対象の総体ではない。モネは1890年代に連作という形で,同じ対象の異なる時間の光の効果を表現するという新たな展開を見せるが,キュビストのように一つの画面に異なる視点,異なる時間を描きこむにはいたらなかった。しかし,この時期に関しては冒頭にも述べたように,今後の研究対象としたい。-176-
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