鹿島美術研究 年報第8号
210/364

⑫ 柳宗悦と民芸に関する研究1910(明治43)年に創刊された雑誌『白樺』に同人として参加した柳宗悦は,当時研究者:三重県立美術館研究報告:彼が専門に取り組んでいた宗教学あるいは心理学の分野の論文を発表すると共に,ビアズリー,ロダン,フォーゲラーらを取り上げた文章を執筆し,造形芸術に対する強い関心を他の同人たちと分かち合っていた。『白樺』全体の流れに従って,彼の関心も後期印象派から世紀末芸術に向けられていたことか歳われるが,それと同時にその芸術観もまた,人格の表現としての芸術という当時の一大思潮を明確に映し出し,後の彼の民芸思想の立場とはちょうど対極に位置している点がとりわけ興味をひく。たとえば,『白樺』第3巻第1号(明治45年1月1日発行)に掲載された「革命の驚家」の中で,柳は「げに藝術は人格の反影である。そは表現せられたる個性の謂に外ならない。従って藝術の椛威とはそこに包まれたる個性の櫂威である。」と述べている。こうした芸術観から出発した柳が,10年後には同じく『白樺』にゴシック美術を取り上げた「中世紀の藝術」を発表し,その中で「芸術には常に非個人的な何ものか深いものが内在する」と述べるに至る。その間には,ウィリアム・ブレイク研究,朝鮮美術とそれに続く朝鮮旅行,さらには朝鮮民族美術館設立の構想があった。同年にはまた「陶磁器の美」と題した焼物についての最初の論文も著している。そしてこの後,木喰仏との出会いなども経て,1924(大正13)年,関東大震災後の東京を離れて柳は京都に移り住む。ここで河井況次郎や濱田庄司と交流を深め,東寺などの骨葦市に通って雑器の蒐集を本格的に開始し,初めて「下手もの」という言葉を耳にする。翌25年には「下手もの」に代わる「民芸」という言葉を創出,1926年には「日本民藝美術館設立趣旨」と「下手もの、美」という二つのいわば民芸運動創始の宣言の発表,1927年には「上加茂民藝協圃」の設立と続いていく。以上のような民芸運動草創期の経過を見ていくとき,柳の民芸思想の展開のうちに次の二つの段階を考えることができるように思う。すなわち1926年の「日本民藝美術館設立趣旨」と「下手もの、美」の発表までと,1927年の「上加茂民藝協圃」の設立以後とである。第一の段階が「下手もの、美」という独自の美の概念の発見とそれを具体的に示す古作品の蒐集という段階であるとするなら,第二の段階はこの美の概念を体現する新しい作品を生み出す段階であるといえよう。仮に第一の段階で終わって土田紀-177-

元のページ  ../index.html#210

このブックを見る