鹿島美術研究 年報第8号
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いたなら,柳の民芸は実践的な工芸運動とはなりえなかったであろう。それは彼の思想全体の中に,また日本近代思想史の中に,独自の位置を占める一つの思想,あるいは美学を確立していたであろうが,工芸史にはほとんど無関係に終わっていたかもしれないのである。ところが第二の段階を踏むことによって,柳自身,それまでの彼の活動とは次元の異なる領域に足を踏み入れ,工芸史上にも決定的な足跡を残すことになったのである。先に略述した明治末から昭和の初めにかけての柳の足跡は,典型的な西洋近代型の芸術思想から出発した彼が,かなり時間をかけて,次第に「民芸」という新しい美の概念にたどり着いたことを示している。その意味で「民芸」という概念自体は,柳独自の思想の営為から必然的に生み出されてきたといっていいように思われる。世紀末美術とその対極に位置する民芸の間にはウィリアム・ブレイク,朝鮮美術,木喰仏など,それぞれ柳の思想に決定的な影を落としている造形芸術との出会いがあった。最初から興味の対象を限定するのではなく,直観的に,直接対象と出会おうとする柳ならではの展開であったといえよう。一方,古作品のうちに発見したを,いかにして今まさに生み出される新しい作品のうちにも実現するかという問題は,もちろん後から付け加わったものではなく,早い時期から柳の念頭にあり,「上加茂民藝協圃」の設立も河井や濱田らとの白熱した議課論の成果であったと考えられるが,その具体的な方法を探るにあたっては,ヨーロッパの近代工芸運動の先駆者であるラスキン,モリスの思想が影聾を及ぼしていると考えられる。柳がどのようにしてラスキン,モリスの思想を知るようになったのか,その具体的な経過は今のところ明らかではないが,協団の設立に一月先立って発表された「エ藝の協圃に闊する一提案」にはモリスヘの最初の重要な言及が見られる。この翌年にかれた『エ藝の道』の一章「エ藝美論の先駆者に就て」ではさらに「初代の茶人達」と並んでラスキンとモリスを自らの先駆者として挙げ,詳しく論じている。この中で柳は,自らの工芸理論は彼らとは無関係に形成されたものであり。最近になって初めて彼らが先駆者であることに気付いたと述べ,具体的には大熊信行の『杜会思想家としてのラスキンとモリス』によって深く知ることになったと断っている。しかし「エ藝の協圃に闊する一提案」におけるモリスヘの言及の内容を見る限り,この一文と同じ年に刊行された大熊の著書以前に,すでに柳はモリスの思想について相当詳しい知識を得ており,しかもかなり深い理解に到達していたように思われる。というのはそこにおける柳のモリス批判は,モリスの思想に含まれていた根本的な矛盾を鋭く突い-178

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