鹿島美術研究 年報第8号
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ているからである。「嘗てモリスは同じ様な運動を起した。賓際彼の意志に共通な幾多のものを私達は感じてゐる。だがどうして彼は失敗したか。その原因は幾多あるであらうが,本質的な致命的な原因は,彼が正しきエ藝の美を知らなかったのだとに鯨着する。彼自らが試み,彼が他人にも勧めたのはエ藝ではなく美術であった。玄はゞ美意識に禍はされたエ藝である」。しかしこのように鋭い批判を展開しつつも,この文章において提案された「エ藝の協圃の設立」という理念自体が,実はラスキン,モリスの工芸思想,およびその影聾のもとにイギリスで展開されたアーツ・アンド・クラフツ運動から大きな示唆を得ていると考えられる。民芸の発見が柳の中で徐々に準備されてきたものとして理解されるのに対し,「ギルド」という滸想は柳の思想の中に突如として現れたもののような印象を受ける。柳は,先に述べた第2の段階に民芸運動を進めるにあたって,近代の杜会に生きている意識的な個人である作家が,いかにして無名の人々の無意識から生み出される美と同じものをつくり出すことができるかという根本的な矛盾にいきあたらざるをえなかった。これに対する一つの答えを提供したのがモリスらの思想と活動であったのであろう。彼らが実践していたギルドという組織の中にこの矛盾を解決する鍵が潜むと考えたのである。しかしモリスらとの関係において,こうした影特関係のあるなしの問題以上に見逃せないのは,むしろその共感の深さと批判の適確さである。たとえば「ウィリアム・モリスの仕事」という一文において,柳は1929年にケルムスコットのモリスの家を訪ねた時のことを回想しているが,工芸の問題に生涯をかけて取り組んだ先駆者に対する真に深い共感の念がそこには満ち溢れている。さらにはたびたび,彼らが中世への帰依によって「復古主義者」と呼ばれたことに対する強い擁調の意を表明してもいる。道徳と不可分の関係にある美という考え方や,工芸がそれを生み出す社会と有機的に結ばれているという思想は,恐らく柳がモリスに出会う以前に抱いていたものであろうが,モリスの思想の基本にあるもので,柳がそこに深く共嗚したとしても何の不思もないのである。こうした深い共感の念を前提として,先に挙げた柳のモリス批判を捉えなければならないが,「美意識に禍はされたエ藝」という批判は,実はモリスのみでなく,ヨーロッパの近代工芸運動全体の矛盾点を鋭く突いたものとなりえている。モリスに始まる近代工芸運動の前半を特徴付けているのは個人主義であった。モリスの工芸への関心は,自らの住居のデザインを考えるという極めて個人的な出来事に始まり,ラファエ-179-

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