鹿島美術研究 年報第8号
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⑬ 岡倉天心のボストン時代—米国における初期日本美術紹介とその意義_ー年11月18日から12月1日まで,米国,特にボストン周辺で天心関連資料の調査を集中Bigelow)の紹介によって雇用されたのであった。ビゲロウは,周知の通り,日本美術研究者:上智大学比較文化学部非常勤講師石橋智慧研究報告:天心が初めてボストン美術館に登場したのは1904(明治37)年3月23日であった。天心は,ボストン美術館の中国日本部に「専門家」として就任したが,蒐集家で天心の長年の友人でもあった同館の理事ウイリアム・スタージス・ビゲロウ(WilliamSturgis 院を創立するために多額の寄附を寄せた人物である。天心は,インド滞在中(1902年)にこのビゲロウに宛てた書簡の中で,アメリカに行き,ボストン美術館の収蔵品について有給で調査したいとの希望を述べたことは,1904年4月11日に館長であったエドワード・ロビンソン(EdwardRobinson)との面接の記録(ボストン美術館蔵,平凡社版『岡倉天心全集』所収)からも分かる。当時43歳であった天心は,自らボストン美術館において雇われることを希望したのであった。1913年9月14日付の新納忠之介から当時の館長アーサー・フェアバンクス(ArthurFairbanks)に宛てた書簡(ボストン美術館蔵,未発表)は,天心の死去の模様を報告し,臨終の様子を記しているが,そのなかでも,天心が「覚醒」を失う直前まで,ボストン美術館のことを「殊更留意」し,最後まで東洋部のことを心に留めていたことが明白に記されているのである。天心は,逝去した年の3月19日に帰国の途につくまで,5回にわたってボストン美術館に勤務し,日本と米国ポストン市の間を半年ずつ往来しながら過ごした。こうして,天心は,1910年5月5日には,美術館評議委員会より中国日本部部長に任命されることになるが,すでにボストン美術館にとっては欠かすことの出来ない大きな存在となっていたのであった。天心の晩年の活動を分析するには,ボストン美術館に保管されている未発表資料が不可欠であり,その資料の収集と分析が当研究の中心的課題である。したがって,昨的に実施した。こうした資料に基づいて天心のボストン美術館雇用時期の成果を調べてみると,晩年とは言え,天心が日本美術のみならず,東洋美術全般を,西洋における当時の美術愛好家や蒐集家はもとより,一般人にも理解され,また知識の普及をはかるためにどれほど献身的な努力を払い,かつその面でいかに優れた能力を有していたかかよく分かる。エキスパート-181-

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