300点は,岡倉氏によって当館蔵品5000点のなかから特に選別されたものなのです。」天心の活動を解明するには,天心が自ら溶け込んでいった当時のボストンの杜会,就中美術館のパトロンとなっていた上流階級の人々の生き方,そして彼等の価値感を理解する必要がある。なぜなら,天心の西洋におけるあらゆる活動は,第一義的には正にこうした人々を対象としてなされた訳であり,天心自身の行動および考殷は彼等の理念や固定観念を常に考慮しながら具現化されていったからである。後に東洋部長となった富田幸次郎は,1907年12月31日付書簡(マサチューセッツ州,ダックスベリ―市のザ・アート・コンプレックス・ミュージアム蔵,Tribute to Kojiro Tomita, 英訳収録)の中で,両親に宛てて初めて天心と知り合った時の印象を生き生きと記しているが,天心のことをボストンの上流階級と親密である唯一の日本人と称えている。そして,かの『茶の本』の草稿は,1905年10月25日から翌年3月までの第2回目のボストン滞在中に,ボストンのバック・ベイの婦人達を集め,漆工芸品や金工品を保存するための絹袋を縫わせながら,天心が行なった講演に基づくものであることが,当時天心の助手をしていたJ・アーサー・マックリーン(J.Arthur MacLean)の1962年の富田宛書簡(茨城大学五浦美術文化研究所蔵,Tributeto Kojiro Tomita,原文収録)から明らかとなっている。マックリーンによると天心は講演の後に,草稿をゴミ箱の中に捨ててしまったが,マックリーンがその都度拾い出して,丁寧に保管したのであった。そして,このことを知った画家ジョン・ラファージ(JohnLafarge)が非常に興味を示し,天心にその出版を勧めたというのが『茶の本』誕生に致る背景なのである。このような講演や美術品収集活動とは別に天心はボストン美術館収蔵の莫大な日本・東洋美術品の整理,目録作りにも当たり,その記録は同館保存の天心資料にも残されている。マックリーンがラファージに宛てた1907年12月3日付書簡(ボストン美術館蔵,未発表)には「いずれはボストンに来て,当館蔵の絵画の優品300点に関して岡倉が作成したリストを調べるべきです。数マイルの旅に十分値いするものです。これらとある。300点からなる絵画リストは,現存しないようであるが,絵画に関する自筆調査記録として,「岡倉氏の絵画優品の原文リスト」と言う21ページにわたるものが存在する(未発表)。この調査記録には,合計199点が含まれ,横線によって消されている作品を除くと,169点からなっている。宋,元,明,韓国の分類から始まり,奈良,藤原,鎌倉I■IIIと続づき,浮世絵で終わるものである。国宝級の法華堂根本曼荼羅や-182-
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