鹿島美術研究 年報第8号
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これらの美術品は,天心を偲んで,ビゲロウが美術館のために購入し,寄贈したのである。1917年8月16日付の天心の弟の由三郎がロッジに宛てた書簡(ボストン美術館蔵,未発表)によれば,ロッジがその時点から天心の遺愛品から幾つかの優品を購入しようとしていたことが分かるだけでなく,その当時の美術市場や天心の遺族の態度等も生々しく記されている。ともあれ,こうして天心が自ら所蔵した美術品がボストン美術館の収蔵となったのである。天心自身が「日本にいた時は美術品が輸出されることにいつも反対してきたが,アメリカに滞在している間に考え方を変えさせられ,今や当美術館のコレクションをどうしても立派なものにしなければならないと切望」していると語っているのである。(1905年2月20日付,「岡倉氏との覚書き」ボストン美術館蔵,『天心全集』所収。)天心自らの収集品がボストン美術館に帰したことは,こうした天心の考えに正に添うことであると言えよう。天心は「…当美術館は現時点では日本美術を道楽か冗談程度にしか扱っておらず,真面目に取り扱っていない」と述べている。(1904年11月27日付,「岡倉氏との会談録」ボストン美術館蔵,『天心全集』所収。)同年のセント・ルイス万国博覧会において天心が行なった「絵画における近代の問題」と題する講演でも明らかな通り,当時の西洋にあっては,日本美術一般を浮世絵や装飾芸術に代表されるものとしてしかとらえない傾向があったことや,日本絵画を稚拙とする余りにも無知な批判があったことを天心自身はよく承知していた。そのため,天心が日本美術の真の姿を西洋人一般に対して啓発しなくてはならないと強く意識していたのである。ボストン美術館に雇われていた期間中,天心は自らの豊富な知識や,日本美術院の人材をこうした目的に向かって,投入し続けた。日本美術の真の価値に西洋人一般が徐々に目覚めて行く過程で,天心が果たした役割は重要であったと言わざるを得ない。そして今日ボストン美術館に存する日本美術の優品と天心の活動の関連を裏付ける資料は,その何よりの証拠であると言えよう。今回の研究助成受領の期間中,ボストン周辺における資料のかなりの部分を収集することができ,その分析,検討作業を進めている。今後は,この基礎的作業を踏まえ,日本および米国において,更に新資料の発見,収集に努めながら,天心のボストン時代に関する研究を一層深める所存である。-184-

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