鹿島美術研究 年報第8号
218/364

せい情ひなかた』との共通性が高く,同一書騨によって刊行されたものと推定される。かさえ⑭ 友禅染の原像と絵師友禅の役割についての再検証【1】友禅風意匠の流行について研究者:国立歴史民俗博物館情報資料研究部助手丸山伸彦研究報従来,友禅染は扇面絵師宮崎友禅によって創案された染色技法として位置づけられ,友禅染の発展に関わるすべてを彼個人の業績に帰する傾向が一般化していた。しかしながら,友禅に関しては,彼が染工であったという記録もなければ直接的に染色に携わったことを示す資料さえも存しない。友禅染の技術面における彼の評価は明らかに過大である。近年,友禅に対するこのような過大評価はたしかに修正される方向にあるが,いまだ染エとしての友禅に固執する傾向は払拭されていないように思われる。友禅染の呼称が示すようにその発展に友禅が重要な役割を果たしたであろうことは疑いないが,それはけっして染エとしてではないはずである。そこで本研究は友禅の染工として以外の可能性に着目し,友禅染の初期段階,すなわち17世紀後期から18世紀前期における絵師友禅と友禅染との関係の再検証に力点をおいて行った。当時「友禅風」とか「友禅流」と称された小袖の模様には,扇絵から派生した丸模様の系統と描絵風の味わいをもつ絵画的図様の系統との二流があり,後者の系統は丸模様が下火となった後もしばらく好評を博していた。元禄以降,小袖意匠の主流は絵画的図様に移行していくが,そのなかで友禅風の絵画的図様は重要な流行模様のひとつになっていた。そして描絵小袖に展開された友禅風の意匠は,やがて技法に特定されない意匠様式として少なくとも享保頃まで絵画的図様のいわば定番となって光琳風の模様とならび評されるほどになっていた。一方,光琳模様は正徳2年(1712)刊『新板風流雛形大成』に「上下ともにかうりんの梅打つけ書の墨絵のもやう」のあるのをはじめとして正徳年間以降好評を博し,光琳風の模様ばかりを収載したことを標榜する雛形本も次々と刊行された。そのうち正徳5年(1715)の『当風美女ひなかた』は,小袖の型,表題の付し方,施工説明を記載せず模様のみとしている点等,元禄5年(1692)刊友禅直筆の『余共通するのは版行形式のみでなく,肥痩のある筆致で描かれた絵画的な図様である点でも軌を一にしている。友禅風の模様と光琳風の模様とは,18世紀初期の絵画的* -185-

元のページ  ../index.html#218

このブックを見る