(1687)刊『源氏ひいなかた』に「扇のみか小袖にもはやる友禅染五条あたりの【4】一流ブランドとしての友禅このような本書の性格を鑑みるとき,その奥書にある「右雛形の絵模様染色請取仕出レ之者也佐女牛井通和泉町友盪斎日置徳右衛門清親貞享5年(戊辰)正月上弦目」の記事はきわめて大きな意味をもってくる。この記述から推して友霊斎は専門の染工であり,「佐女牛井通和泉町」は友壼斎の染色工房の所在地と考えられる。「佐女牛井通」は「醒井通」の当て字で,堀川の東,四条と五条の間にある通りであり,染色工房の集中する地であった。この地と友禅染との結びつきは貞享4年染屋にある夕がほの模様』とあることからも知られる。友禅染と特定の地域との結びつきは,この周辺の染色工房が「今様の香車なる物数寄」(友禅ひいなかた)にかなった多彩な模様を表出する技術力に秀でていたからと推定される。『友禅ひいなかた』「凡例」にいうところの「絵の具水にいりておちす何絹にかきても和也」とか「紅絹のうへにはえのぐしみてか、れさるを今新に絵の具を以て書也」といった記述も,その先進性の一端を示すものといえる。上記【2】■【3】より,初期の「友禅染」は,糊防染を中心とした先端的な表出技法を有する堀川近辺四条から五条周辺の染色工房か,巷間好評を博していた友禅の意匠を学び,あるいは模倣して時様に即した小袖模様として確立させたものと考えられる。かれらが友禅の意匠に着目したのは彼の描く図様が「今様の香車なる物数寄」にかなっていたからに相違ないか,それにもまして大きいのは扇面絵に一流をなしていた絵師友禅の知名度であったろう。「友禅」は,いわば一流ブランドとして定着したのである。そしてそれは,現在のブランド商品が必ずしも技法や意匠を特定するものではなく,むしろ模糊として捉えがたい存在であるのと同様,「友禅」もそこに多様な側面を含み,一概に論じ得ないことを意味する。しかし,多義性を内包した「友禅」のイメージは,貞享4年(1687)刊『女用訓豪図縮』に「書林某世にひろめん」とあるように,当時の出版機構を通じて迅速かつ確実に広められていった。イメージが先行し,やがて大きな流行が形成されていく過程には,現代的な流行に通じるものがある。「友禅染」は,不特定多数の人々を受容の対象とする新しい流行様態の到来を告げる表徴的存在として位置づけられる。以上,「友禅」の原像をめぐってその成立と展開に新知見を得た。しかし,18世紀中の「友禅」の用例には,未だかなり大きな意味上の振幅が認められる。当代の小袖-187
元のページ ../index.html#220