鹿島美術研究 年報第8号
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動明王彫像の主流となってゆく。なお,極楽寺像の側頭部で巻髪・宝冠の上層にかかる髪の表現は,10世紀後半の奈良・玄賓庵像,11世紀の勇山寺像,京都・神泉苑像,千葉・長昌寺像,千葉・大聖寺像などいくつかの作品に類例を見る額の左右から烙髪状に立ち上る髪束の系統をひく一異形と解されるが,不動明王像の頭髪への関心が高まったこの時期特有の表現として銘記されよう。なお上記のなかでも千葉県下の二作例は,蝶形に結ぶ髯など類品稀な細部をもち,図像上の地方色を示唆する点,興味深い。さらに同衆院像を範としつつ天地眼・牙上下出とする大分・無動寺像,奈良・不動院像巻髪でありながら両眼開,上歯牙下出とする宮城・花山村像,東京回恵明寺像などの諸像もあり,三井様と十九観様という,平安時代後期を代表する不動明王彫像の二つの典拠の間の交流の実態を物語っている。iii.構造寄木造確立期の三例をめぐって一一寄木造は定朝によって大成され,彼の平等院鳳凰堂阿弥陀如来像[天喜元年(1053)]がその完成された技法を示す代表作であることはよく知られている。しかし,平等院像成立前後における定朝やその周辺の工房での技法選択の幅についてはあまり論じられたことが無かった。今回調査した作例のうちこの頃の中央的作風を示すものとして,山梨・大聖寺像,大分・金剛宝戒寺像,福井・常禅寺像の三例がある。いずれも等身の坐像である。これら三謳に共通する木取りの特徴として,両腰脇に三角材を設けないか,設けてもきわめて小さいことがあげられる。大聖寺像は両腰脇の大半を含んで躯幹部を一材から木取りし前後割矧ぎとするが,割首を行わず躯幹部材と両脚部材との矧面を奇ljり残す古式の構造になる。金剛宝戒寺像は躯幹部材と体側部材との矧目を両胸上を通る線に設けるなど,同衆院像や六波羅蜜寺地蔵菩薩立像[長和4年(1015)〜治安3年(1023)頃]との共通性が見られ,両腰脇は体側部材から木取りして小三角材を矧ぐ。常禅寺像は前後割矧ぎ,割首の典型的な割矧造であるが,両腰脇まで躯幹部材から木取りしている点が平等院像やその系譜を引く後代の作例,たとえば寛治4年(1090)頃の新宮寺像と異なる。上掲の三例は11世紀中葉,定朝活躍期の前後に位置づけられるが,大聖寺像・金剛宝戒寺像から常禅寺像へと,技法の進展とも見なしうる構造上の差違が認められることは注目に値する。また,平等院像とは形制(大衣の有無)・法量のうえで異なるこれ192-

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