⑰ 杭州をめぐる仏教絵画_宋時代江南地方における仏教絵画とその東アジア地域への波及ー一研究者:東京国立文化財研究所情報資料部研究員井手誠之輔研究報告:杭州は,北宋から南宋への王朝南渡・元王朝の江南支配という大変革にもかかわらず,天台・律・華厳.禅などの学においても,士大夫に代表される居士仏教においても,浄土信仰に代表される民衆仏教においても,ひとしくその中心的な場として存続し,きわめて多様な伝統をもつ仏教文化が一所に凝縮されていた特別な地域であった。そこでは,いくつかの有力寺院が,開かれた文化交流の場として機能していたことが考えられ,そうした文化交流を抜きにしては,仏教絵画の制作を専門とする仏画師工房の成立や,南宋画院における劉松年・梁楷,または牧硲など,仏教文化との連絡をもった画家の出現を語ることはむづかしい一面がある。また杭州は,中国ばかりでなく,高麗や日本をふくめた東アジア地域における仏教文化の窓口であり中枢でもあり続けてきている。本研究は,このような杭州の地がもつ特色に注目し,杭州における有力寺院に関する資料を収集・整理して,その開かれた文化交流の場としての機能を明らかにすることを目的としている。本稿では,その中間報告として,宋時代から元時代における杭州寺院の中から,妙行寺をとりあげ,若干の考察を試みることにしたい。妙行寺は,杭州における浄土教家であり画僧として著名であった喩弥陀思浄思浄の時代に三百万もの飯僧がなされたことから,俗に接待寺(或は接待院)とも呼ばれる。妙行寺の位置する杭州城・北西の餘杭門(或は北関門)をでた辺りは,杭州の大人口を養う米の集積地であり,思浄の作善と無関係な地域ではなかったようである。草創期の妙行寺と喩弥陀思浄の作善,さらにその阿弥陀画像については,すでに田修二郎氏や吉村稔子氏の所論があり詳述しない(1)。ここでは,南宋から元時代の妙行寺が担っていた祖師像における「図像センター」とでもいうべき機能に注目してみたい(2)0 元時代の杭州における禅林の中心的人物のひとりであった中峰明本(1263■1323)の語録には,次のような妙行寺についての記録がある(『天目中峰明本廣録』巻八「仏祖讃」条)。(1068■1137)が,北宋末の大観元年(1107)に創建した小庵にもとづく寺院である。-198-
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