鹿島美術研究 年報第8号
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「(前略)杭之妙行寺,嘗集五宗伝道之師遺像数千軸,毎遇歳旦展桂,細白嗚礼,目之日祖師会。有好事者,図少林至天目直下相承二十八代祖師遺像。歳遇少林諒日,薦羞莱盛,以酬遍代伝持之徳。明本為述小伝並偽,以賛之。」この記録は,達磨より中峰明本の師であった高峯玄妙にいたる東土(中国)の二十八祖像に付された題践の一節である。妙行寺では,中峰の時代に「五宗伝道之師遺像」が数千軸も集められ,毎年,元旦に開かれる祖師会において,杭州の人々に開陳されていたという。妙行寺の沿革については,その寺誌である『聖因接待寺誌』(明代の重建後,寺額を改めた。卍中国佛寺史志槃刊七第三輯)が最も詳しい。それによると,草創期の伽藍は,建炎3年(1127)12月,金の杭州侵入によって殿している。しかし,まもなく復興事業が始められ,紹興7年(1137)の思浄の示寂をはさむ紹興年間に,弟子の行超・行珀・行速・行全らの尽力により,宝蔵殿・水陸堂・僧堂・法堂・方丈などの諸堂が整備されている。その後,元末の紅巾の乱に際して,至正12年(1352)7月,徐壽輝の敗残兵が妙行寺にたてこもり,官軍によって火が放たれ,再度,灰値に帰してしまった。南宋の紹興年間における再建から元末の兵火にあうまでの約200年間における妙行寺の沿革については,淳煕年間(1174■1189)に行端によって観音閣の再建がなされたこと,ついで宋末元初の際,寺僧の緊散が激しかったこと,至元28年(1291)頃,『喩弥陀思浄伝』の板行をみたことなどがわかる。他の史料によれば,至大元年(1308)9月に妙行寺を訪れた郭晃は,その寺観について日記にとどめ(『客杭日記』,筆記小説大観二十一編五に所収),延祐元年(1314),高麗の涸王は,古杭印造大蔵経五十蔵を中国の諸名刹に施入するにあたって,下天竺・集慶・仙林・明慶・演福.惹因・崇光・青蓮・悪力の諸寺とともに妙行寺を杭州の名刹の一つとして選んでおり(「大功徳涸王請疏」『慧因寺志』巻七,武林掌故叢編ー所収),妙行寺は中国にとどまらず,東アジア世界にも聞こえる寺院であった。南宋から元時代における妙行寺の歴史は,杭州における都市の繁栄とともにあり,宋末元初の一時期をべつにすれば,安定した平穏な年月を重ねていったようである。妙行寺における祖師像の収集も,この時期に漸次おこなわれたに相違ない。祖師像を収集する一方で,何時から妙行寺の祖師会は始められたのであろうか。管見の最も早い祖師会に関する記録は,『雪山祖欽禅師語録』巻四「自賛」条における七点の自賛像の一つに付された「嗚巌居士請入錢塘北関祖師会」という注記である。199

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