鹿島美術研究 年報第8号
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この記録から,遅くとも雪山祖欽の示寂した至元24年(1287)に,祖師会が開かれていたことが知られるが,その始まりの時期については資料に恵まれない(3)。画像の収集とその公開には多少の時間的な隔たりがあるのは当然であるが,民衆の眼を楽しませていた「肖像画の展覧会」とでも称すべき祖師会の開催もまた,杭州における都市の繁栄とともにあったことは明らかであり,画像の収集とともに南宋時代よりなされてきた可能性は捨てきれない。ところで妙行寺に収集された「五宗伝道之師遺像数千軸」の内容に関する記録は,管見のところ,いずれも禅林に関係している。中峰の記録にみる東土二十八祖像が禅宗の祖師像であり,さらに「五宗」は,禅林でいう五家(‘i為仰・臨済・曹洞・雲門・法眼)を意味するとも考えられることから,少なくとも妙行寺が杭州の禅林と深い関係にあったことは明らかである。禅宗の発展をみた当時の中国では,華厳・律・浄土系の寺院にあっても日本の寺院ほどに宗派的な独立性をもたず,禅との兼修的な道場としての開かれた性格を有していた場合が多いことからすれば,妙行寺と禅林との関係は当然のことでもあった。ただし,もともと妙行寺が浄土教家の思浄の開創になることや,俗に接待寺と呼ばれるようなニュートラルな性格をもつ場であったことを念頭にすれば,妙行寺に収集された祖師像が禅宗に限られていたとは断定できない。いづれにせよ重要なのは,13世紀後半から14世紀前半の時代に,数千軸もの祖師像が杭州の一処に収集されており,各派の祖師像(頂相)のほか,いくつかの図像を組み合わせれば,さまざまな法脈をしめす列祖像を臨機応変に制作できる環境が整っていたことにある。達磨の忌日に中峰が賛をとどめた東土二十八祖像は,まさしくそうした画像の再生産を行った一例であった。さて,1300年を前後する時期に一種の「図像センター」とでもいうべき機能を果たしていた妙行寺の存在を念頭におきつつ,当時の祖師像制作の実態を,禅林の列祖像によりながらみてみたい。中国における列祖像の制作は,達磨から慧能にいたる六祖像については,すでに唐末より行われていた(『益州名画録』張南本・邸文播・僧令宗条)が,六祖につづく法脈をしめす列祖像の制作は,おおよそ北宋時代に始められたようである。現在しられる古い作例には,六祖像として北宋の至和元年(1054)に板行された六祖の図像を日本で白揺に写した「達磨宗六祖師影ー紙」(高山寺)がある。また列祖像としては,同じく日本で白描図像として図写された「伝法正宗定祖図一巻」(東寺観智-200-

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