院)があり,これは,北宋の嘉祐6年(1061)の契嵩『伝法正宗記』十二巻の一部を成していたもので,釈迦から般若多羅までの西天二十八祖と,達磨から慧能までの六祖,さらに竺力士以下の十人を加えた,あわせて四十四人を表している。ただしこれらの作例は,いづれも祖師と印可をうける弟子とを併せ描いて師資相承を明示することを目的としたもので,後世,一般的にみられる祖師の全身や半身を独立して描く形式とは異なっている。契嵩の『伝法正宗記』によってインドから中国の初祖達磨にいたる西天二十八祖が確定されたことからすれば,一般にいう東土の列祖像は,その後の北宋後期頃から,その制作がなされたものと考えられる。こうした中国の禅林における一般の列祖像には,現存作例がなく,その実際をみることはできないが,禅林の語録には次の作例が求められる。これらの著賛からみると,およそ南宋時代から元時代において,列祖像の制作が広まった様子が想像される。一方,六祖像に限っていえば,著賛の数も多く,すでにい頃からその図像が伝播したものとみられるが,現存する作例は,京都・栗棘庵本や大分・闘福寺本など,いづれも元時代の碑像の拓本がしられるのみである°。以上,列祖像について簡単にみてきたが,こうした列祖像の制作が盛んに行われた南宋から元時代の時期と,先にみた妙行寺が「図像センター」として機能していた時期とは重なりあっている。妙行寺における祖師像の収集とその公開,さらには図像提供というセンター的環境の整備がなされる背景には,それなりの理由が考えられるべきで,杭州という都市が求める社会的な需要や要請があったのかもしれない。長い伝統をもつ名刹の多い杭州にあって,北宋末の創建という新しい寺院であり,接待寺という宗派上の制約をもたないきわめてニュートラルな性格を保持していた妙行寺は,先述した「肖像画の展覧会」とでもいうべき祖師会の開催や「図像センター」としての機能など,杭州という都市の繁栄のもとで必要とされた開かれた文化交流の場として最もふさわしい器であったともいえるだろう。最後に,妙行寺と日本との関係について考えてみたい。祖師像における「図像セン1)伝灯三十五祖像2)二十八祖像3)三十三祖像4)黙庵筆二十二祖像5)因陀羅筆十六祖像『天目中峰明本廣録』(1263■1323)『楚石梵埼禅師語録』(1296■1370)(同上)(同上)『11尉深廣聞禅師語録』(1089■1163)-201
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