ター」という機能をもつ妙行寺の存在は,まさしく13世紀から14世紀に中国の直接的な影響のもとで禅林のシステムを整えつつあった日本にとってみれば,格好の図像資料を収集しうる場でありえたことは容易に想像できる。たとえば『仏日庵公物目録』に数多く記された中国の祖師像,先の記録にみられる黙庵筆の二十二祖像,明兆筆の「釈迦三尊及び三十祖像」(京都・東福寺)や「四十祖像」(京都・東福寺)などの図像の典拠について考えるとき,妙行寺の存在を無視することはできないと思う。妙行寺を訪れた日本僧の記録は管見になく,妙行寺と日本とを直接結びつけることはむづかしいが,たとえば宮内庁本や鎌倉・称名寺本の禅月筆十六羅漢図とほぼ図像を等しくすることでしられる拓本が,もともと杭少卜1の聖因寺に由来するものであり,その聖因寺が,じつは明時代になって寺額を改めた妙行寺であるという注目すべきこともある凡この拓本は,第四難提密多羅尊者に記された乾隆帝の賛文と僧明水の銘から,清の乾隆帝が,乾隆22年(1757),聖因寺(妙行寺)に詣でた際,そこに伝来する禅月羅漢の画像を嘆賞し,各尊者の名前と順番を梵経に照合させて新たに定めたことや,乾隆29年(1764)に,乾隆帝の定めた尊名と順番にしたがって,寺僧の明水が画像を石に勒み,その図像を広めたことなどがしられる。清時代に聖因寺(妙行寺)に伝来していた禅月羅漢図が,先の数千軸の祖師像に含まれるかどうかは祖師像と羅漢という主題の別や,妙行寺が元末の兵火で灰儘に帰したこともあって確かめられない。しかしながら,元時代の作品とされる鎌倉・称名寺本が,称名寺の伽藍整備が行われた正和年中(1312■1316)頃に,金沢貞顕によって施入されたと考えられ,まさしく「図像センター」として妙行寺が機能していた頃と期を一にしているなど,何らかの連絡を想定できないこともない。現段階での実証はむづかしいが,こうした記録の指摘をとおして,13世紀から14世紀において日本に請来された作品や日本で制作された作品にも,おぼろげなら妙行寺の影が宿されていることの可能性を示しておきたい。本稿でとりあげた妙行寺にその一例をみた,杭少卜1の有力寺院のもつ開かれた文化交流の場としての機能は,江南地方における宋時代以来のさまざまな仏教文化の中枢であり,南宋から元において飛躍的な都市の繁栄をみた杭州という場のもつ性格と無縁ではありえない。禅林における五山の諸寺やとくに高麗との関係の深かった華厳における慧因寺など,今後も文化交流の場として機能していた寺院について焦点をあてながら,杭州をめぐる仏教絵画の研究を深めたいと思う。-202-
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