鹿島美術研究 年報第8号
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くつろいだ姿勢をとる観音は中国の作品に多くの例を見ることができる。まず,その姿勢に注目すれば幾種かのバラエティーがある。ア.右膝を立て左足を踏み下げて坐し,左手を腰の脇につく形。イ.坐形はアに同じ,左腎を岩につき,右手は右膝上に投げ出す。ウ.右膝を立て,左足は横にし,腰脇に手をつく形。工.坐形はウに同じ。手勢はイに同じ。アの形の像は,横須賀・清雲寺の木造滝見観音像,建長寺の絹本著色白衣観音像など日本に将来されている。しかし鎌倉地方にのこる像は,中国の作例のいずれとも形勢に於て一致しない。次に画像を追ってみる。この種の観音画像には高麗画が多い。その多くが,左足を踏み下げ,右足は践坐する形で片方の胃を岩につく形である。高麗画の観音像は,泉屋博古館本の銘に至治三年(1323)の年紀があることから,これを前後する十三世紀後半から十四世紀中頃に最も盛んに造られたと考えられる。そして注目されるのは高麗画の観音が半珈していることで,中国にはみられなかった坐形である。高麗では中国とは異なった半珈坐という形でくつろいだ姿勢の観音像を受容した。日本ではまたこれとも異なった形になるのである。ここに,鎌倉地方に於ける宋風受容の実体を解<鍵がある。を地面につき,くつろいだ姿勢をとった観音の彫像を造立した点は鎌倉が他地域よりも栢極的に中国文化を受容した証左と見ることができる。しかし無批判に受け容れたわけではなく,日本的な美意識或は神聖な対象に対する意識をもって,限定的に受容したというのが実体の様である。ここで主体的に働いたのが施主,僧侶,仏師のいずれか明らかでないが,現存する作例の多くが,地に手をつく姿勢が不自然であるところからすると,仏師にそうした意識の強かったことがうかがわれる。また,ここで限定的に宋風を受容したと言ったのは,形の上でのことで,作風については別個の問題である。それぞれの作風は慶珊寺像の様に日本の伝統的作風に連なるもの,禅居院像の様に鎌倉時代前期に慶派が受容した宋風の域に留まるものなどであって,直接に中国の像とのつながりを見出せるものはない。鎌倉が盛んに往来したのは中国でも杭州などの南方である。中国南方の当時の像は泉涌寺楊貴妃観音像,清雲寺滝見観音などである。それまで慣れ親しんで来た仏像とはあまりに違う特異な容姿を受容消化することはできなかったのだろう。故に宋風は-205-

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