鹿島美術研究 年報第8号
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形(半珈像,法衣垂下など)を中心に部分的に採用されたとみるのが妥当と思われる。鎌倉でこうしたくつろいだ姿勢をとる観音像を造ることになった直接的な原因は清雲寺木造滝見観音像,建長寺絹本著色白衣観音像などの請来品である。建長寺白衣観音像は岩上に大きく観音を描き,下方に合掌する小さい童子を配する。高麗画をはじめ,画像では合掌する童子が知られている。これが善財童子であり,『華厳経』入法界品を典拠としていることは既に知られている。そこで経典にあたってみると観音は補陀洛山に「結珈跛坐」すると説かれている。経典に結珈鉄坐すると記す観音がどうしてこの様なくつろいだ姿勢をとるに至ったのだろうか。中国宋代には華厳と禅が融合して教禅一致或は禅教一致を唱えた。そうした中禅者の立場で経典を離れて自由な発想から造形化することが行われたのだろう。現存作例よりみると十世紀にはこうした姿の像が造られはじめている。やや下って十二世紀頃に雲門宗の僧によって著された『文殊指南図讃』では入法界品,善財童子の五十三善知識訪門を絵画化しているが,観音は右膝を立て左脚を横にして右手は思惟の形,左手は地面についている。この『文殊指南図讃』は日本にももたらされ,明恵上人など華厳僧に影響を与えた。次に観音半珈像はどこに安置され,どの様に礼拝されたのだろうか。残念ながら現存作例のうち当初の安置場所のわかるものはない。しかし,『禅林象器箋』に三門上に月蓋長者,善財童子と共に安置すると記している。禅宗において三門は正確には三解脱門という。三解脱とは空・無相・無作の三つの解脱を言い,これによって涅槃に至る。仏殿は涅槃と考えられているのでそこに通ずる門は三解脱門と称される。ここを通って涅槃に至るという位置に,求道者善財童子を教え導く観音を安置することはまことにふさわしい。禅僧がこの様な観音像にいかに対したかは観音画像に付した讃などからうかがわれると考えられるが,讃や偽を読み解くのは困難で今後の課題としたい。さて観音半珈像は鎌倉では最初に見た様に禅宗寺院に限らず,極楽寺・鶴岡八幡宮寺にも安置されていた。これは極めて興味深いことである。くつろいだ姿の観音は前にも触れたとおり日本では禅宗以外に華厳教学者である明恵上人などに受け容れられ,『華厳海会善知識図』などに描かれ,東大寺,久米田寺などに遺されている。この両寺はいずれも,華厳研究の重要な拠点で,横浜・称名寺などにも密接な関係がある。鎌倉では浄光明寺,極楽寺,称名寺,多宝寺,東勝寺などが集って四宗を興隆しよう206-

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