と研鑽し,その中で華厳が重要な位置を占めていた。おそらくこうした寺々に『文殊指南図讃』の観音の図像が広まったことだろう。そして鎌倉では禅宗寺院に於てそれが彫像化されていたので,これら極楽寺など禅宗以外の寺院にも造立される事になったのだろう。禅僧と極楽寺,称名寺などを支えた真言律僧の交流のあったことは内容については未詳だが知られている。また,四宗興隆につとめた寺のうち東勝寺は有力な禅僧も住した寺である。当時の鎌倉の寺院が華厳を軸として宗派を越えて一つになっていたことを知ることができる。それを象徴的に示すのが鶴岡八幡宮寺にも安置されたという事実だろう。鶴岡八幡宮寺は密教寺院であって華厳経にもとづく造像が一般に行われることはないはずだが,ここに造立安置されたということは,それだけ鎌倉の中で一般化していたとも見られるのではないか。八幡宮寺は鎌倉の宗教的中心でもあるのである。以上の様に観音半珈像は多岐に亘る問題を含んでおり,今後の課題も残ったが,一応の成果を上げることができた。207-
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