鹿島美術研究 年報第8号
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るに及んでは,安債なる童蒙用銅携本の汎濫となり,著るしく藝術的価値を喪失し,•3.創作版画運動は明治後期に衰微した版画の美術としての復権,それ故の新しい版それによる版画の芸術的質の変容として論述する必要がある。画創造を求める運動であって,明治期の版画との訣別,断絶を宣言したのではない。創作版画運動の口火を切った石井柏亭ら『方寸』グループは明治期の版画と大正期の版画の接点である。しかし,この時,大衆は版画離れしており,創作版画運動は大衆から乖離した地点から,そして印刷技術とも乖離した地点から出発したのである。大衆美術の性格を失った大正・昭和戦前期の版画は,といって選ばれた美術でもない曖昧な存在であった。版画が再び人々の手に戻るのは,そして印刷技術と再び手を結ぶのは,約半世紀後である。以上の考察は明治の版画の芸術としての質を検討したことから出たものである。すなわち,明治初期において,浮世絵系の三代広重,貞秀,芳年らの横浜絵,芳国らの上方版画,清親の光線画があり,彼らは新しい時代の新しい版画の創造に努めたのである。それが明治14,5年に始まる石版額絵の流行を前に衰退していくのは,手間のかかる手摺木版画よりも手軽で小綺麗,そして安価な石版印刷に出版業者が注目し,版元(木版画工房)も石版印刷所に衣更えして,画師(画家,画エ),彫師,摺師が切り棄てられたという理由以上に,当時の木版画の質の低下,時代がかった色調と表現に比べて,遠近法を上手にとり入れて時代風俗を素直な色調と筆描で制作した石版画にリアリズム志向の大衆の趣向が傾いたからである。版画が大衆美術である限り,ファッションと同じで,大衆の好みに追従するかそれを先取りしなければ見離される。パトロンが大衆である木版画(錦絵)が額絵(西洋錦絵)に比べて大衆の好みの変化に遅れをとったのである。版画家と出版人の時代認識の甘さと版画に対する自負の稀薄が版画の大衆性も芸術的質の高さも維持できなかったのである。しかし,この点についてはさらに関係資料を収集調査して実証する必要があり,今後の課題である。銅版画,石版画についても同様の事が言える。キヨソネが明治12年<大久保公肖像〉をメゾチント(『印刷局沿革録』による)風に制作しているが,この技法を継承する版画家は出なかった。西村貞が述べるように「明治五・六年ごろ迄は…もっぱら創作版画としての気票と趣致を株守するところあったが,銅版製作の漸次工業的性質を帯ぶしだいに創作版画としての領域を逸脱して,低級粗悪の手藝印刷の一種と化し去」注つたのである。仔西村貞『日本銅版画志』,書物展望杜刊,昭16,pp.455-456。)210-

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