石版画の場合,『観古圏説』『國華餘芳』の石版画は記録画とはいえ,高度な技法による精緻な作品である。初期の額絵には注目すべき作品もかなりある。しかし,結局は粗製乱造の果てに衰徴し,三色版の時代を迎えることになる。銅版,石版の技法は活版印刷,写真版が普及する迄の印刷技術でしかなくなるのである。玄々堂松田緑山,慶岸堂梅村翠山の工房から多くの門下が輩出したが,これらの画家なしい技術修得者が開業した印刷所が印刷会社となり,中小の印刷所が吸収合併されて大印刷会社が出現する。印刷技術の革新が産業構造を変える過程で版画工房を固守する者はいなかった。また,銅版,石版の挿画入り本を年代を追ってみていくと,絵は絵図となり,果ては単なる図となっていく。版効果について画工がどれ程認識していたか疑問である。出版人は版技法を印刷技術としてしか利用していないのではないかと考えられる程,版画は印刷物として扱われているにすぎない。『輿地誌暑』の再版,重版はその例である。しかし,中には版画としての表現に画工の思い入れが見られる挿画もある。要するに,挿画版画の良否は制作に関わる者たちの挿画としての版画に対する姿勢によっているのである。江戸時代の浮抵絵版画の画師や明治初期の有名無名の版画家や画工はく版を介した絵〉である版画のオリジナリティを認識していた。この認識と版画制作者としての自覚が稀薄になれば,版画はく版による絵〉ではなく,<版で刷られた絵〉にすぎなくなる。版画の質の低下,版画の末期症状である。新興美術としての創作版画の運動はこの明治後期の版画の質の低下,複製版画,および用としての版画に対する美術としての版画,オリジナリティをもつ版画の復権運動であったと解すべきである。以上のことは版画史上の新知見ではない。実際に明治の版画,挿画版画を見ての私なりの再認識である。ただし,これ迄の版画史研究者が主として印刷技術史との関係から明治の版画を論じるきらいがあったのに対して,作者が有名無名の画家を問わず,その手になる版画を純正に版画として見,その芸術的質を問うべきであると考え,この線に沿って明治期の版画を述べたものである。鹿島美術財団より研究助成金を受け,以上の成果を得られたことを感謝します。すりもの211-
元のページ ../index.html#244