鹿島美術研究 年報第8号
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ていたことの片鱗だけは知られるであろう。塔銃の形式は当然わが国にも及ぶことになる。法隆寺献納宝物中にも台脚は後補ながら二重相輪金顎の金銅塔銑を一合伝えているが,伝世品最大の宝庫は正倉院である。正倉院の塔銃は,三重相輪的の金銅大合子四合,五重相輪的の黄銅合子ー合,五重相輪釣の佐波理合子ー合,七重相輪紅赤銅合子ー合の計七合を数えるが,前四合の大合子のうち三合には,「左十五」「左四」「左十四」「左二」などの毛彫銘を刻したものもあり,同一形式のものが量産されたことを示唆している。これは供養具として多用されたためで,この大合子の場合はその重量からも仏前に並べて置用した据香炉とも考えられる。もし量産化されたものであれば技術的には比較的容易な惣型鋳造と考えられ,請来品を範とした国産品とみなすべきであろう。他の三合は,黄銅合子と佐渡理合子が鋳造,赤銅合子は鍛造によると想定されるが,いずれも中国と韓国の諸例に比して卓抜な金工技法を示しているのが注目される。塔銑自体の形式が中国で考案された以上,これを国産化するには範とすべき請来品が不可欠であったに違いないし,範とすべき品は高水準の技法を駆使したものが要求されたであろう。今後細部に亘る精査が必要であるが,この三合は範とするために請来された塔銑の第一級品であり,彼地の出土品よりも秀抜な技佃を示すのもその故と想定される。0浄瓶(水瓶)浄瓶は唐の僧義浄(635■713)の著した見聞録『南海寄帰内法伝』(691年撰)によれば,元来は僧侶が飲用水を盛って携えるための容器で僧具の一つだったらしい。しかし次第に仏前に供える浄水の容器を意味するようになり,供養具としての体裁を整えるに至ったと考えられる。中国では俗に胡瓶と称されるペルシャ風の水瓶も多く出土しているが,純粋に仏具として製作されたと考えられる水瓶の近年における出土例はの四口であろう。いずれも単独に出土したものではなく,庫秋廻洛墓では高足蓋付杯(合子),礁,―o 1973年山西省寿陽県北斉庫秋廻洛墓出土金銅浄瓶o 1983年河北省晋県唐墓出土銅浄瓶o 1984年河南省洛陽市龍門禅宗七祖荷沢神会墓出土金銅浄瓶o 1985年映西省臨潅県慶山寺塔基出土鍍銀佐波理浄瓶216-

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