せんだい足器,銃,燭台など300点以上の品が,また晋県の唐墓からは,陶製の鉢,罐,売碗,完注壺,荷沢神会墓では先述した柄香炉のほか塔銃や黒漆塗陶製鉢が,さらに慶山寺塔基からは鍍銀獣脚香炉,金銅唐草文杯,鳳首胡面水瓶,銀匙,銀箸,金銅錫杖など骸しい副納品が発見されており,当時における供養具の実体を目のあたりに示してくれる。うち庫狭廻洛墓と慶山寺塔基出土品は胴体部が卵形を呈するいわゆる王子形。他の二例は身の肩の部分に皮袋を象ったと思われる取水口を設け,注口となる長頸上方のロに,尖台と呼ばれる塔形紅の蓋を備えた仙蓋形と称する形状をなす。なお鮮卑貴族の庫狭廻洛は562年に歿しており,この墓も其の後程ない時期の造営であろう。したがって水瓶の製作時期もその頃と考えて大過ない。晋県の唐墓の造営時期は詳らかでないか,荷沢神会墓は神会の没年が758年,慶山寺塔基は発掘された碑文(舎利塔記)から開元25年(737)の造営であることが知られるので,いずれの水瓶も紀年銘品に準じる基準作例として注目される。この四例に限っていえば,王子形水瓶は北斉時代(550■578)にすでに完成した器形を有し,それが唐代の8世紀まで踏襲されてきたことを示している。因みに敦燈莫高窟の菩薩像が王子形水瓶を持物とするようになるのは,297,428, 439窟など北周時はさらに顕著となり,当時における盛行のさまを物語っている。しかしながら仙蓋形水瓶の事例は,莫高窟のいずれの時代にも確認されていないし,そのことは唐代を通じて王子形がなお浄瓶の主流として推移してきたことを示しているようである。唐代に仙蓋形水瓶が供養具として使用されていたことは,晋県唐墓と荷沢神会墓からの出土事例によっても疑う余地はないが,その出現の時期については詳らかでない。神会墓出土品は神会の歿年である758年が一応基準となるが,形姿的には唐からの請来品とされる法隆寺や正倉院伝来の仙蓋形水瓶(いずれも取水口に胡面をあらわす),あるいは法隆寺献納宝物中の仙蓋形水瓶の方が造型的にも洗練されており,末広がりの安定した高台にみられる伝統的な手法,初発性を示す尖台の形状からも若干先行する遺品と考えるべきであろう。前後逆になるが,わが国における浄瓶の最古の遺品は,6世紀末の築営とされる群馬県高崎市綿貰観音山古墳から出土した王子形水瓶である。この場合仏具として使用代(557■581)に開かれた石窟の彩塑菩薩像からで,その事例は隋,唐代窟の壁画で217-
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