鹿島美術研究 年報第8号
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⑫ 戦後日本の書芸術とその西洋美術関係治15年東洋学芸雑誌(8,9, 10号)にて洋画家の正太郎が西洋画論と写実主義の原23年第4回日展に書道が第5科として加えられて,はじめて正太郎の論旨が否定され研究者:パリ第一大学院生研究報告:前衛書の起源は古く甲骨文字に求められる。戦後になって多く見られ始めた前衛書作品はその根元を中国文字伝統ひいては日本書道史に求められる従来の書の形体と根元を異にしている。その出発点の意識下での原点選択やその意義は重要な点ではあるが本報告の対象ではない。前衛又は現代書の歴史は明治13年に始まったと言える。その年に,清国駐日公使に従って来日した楊守啓が碑版法帖,特に当時の日本として珍しい北碑のものを持って来て初めて紹介した。それによって古体派に対立して古代遺産を発見した卑学派が古文策隷の造形性と素朴な書に対しての関心を持ち研究を進めた。それは古拙な美への関心の端緒となった。時代を遡っての原始的な美の発見,或は目覚めが,とりわけ,原典の一新をもたらした。序でながら,その頃,地球の裏側では印象派の画家達が浮世絵の魅力に引かれ,又ゴーギャン等は民俗的,原始的な美への追求を始めた。これは偶然の一致ではあろうが考慮に入れなければならない。現代書のもう一つの出発点は小山正太郎と岡倉天心との論争であるとも言える。明理を参考にして「書は美術にあらず」と言う論文を出した。そこで天心が同誌に書道弁護の反論を掲載した。当時の書道界には反靱がなかったとしても,正太郎の断言は単にアネクドテイックなものではなくて,昭和期の書道界に行なわれた現代化の前兆として考えられるのではないかと思う。明治政府の日本近代化政策の中では,文化全般に関して西洋美的思想の輸入と写実主義が重要とみなされ,書は西洋美術のいかなる範疇にも入らず伝統の芸能として考えられた。一方では書道家自身が書を東洋の純粋なものとして考えた。書と絵画,(水墨や南画を除いて)両側から接触の意志が殆どみられなかった。正太郎の言葉を解釈するとその時点で書は美術範囲から拒否されたと考えられる。戦後になって西洋美術観念の範疇に属していない事が書道家達によって見直され,問題視された。書をどのように芸術として位置づけるかと言う重要な問題点に到着する。国際性を求めた前衛書は,それで現代の世界や杜会の中にどのように生かされるかと言う点に行き当って,そのアイデンティティが問われてきた。昭和フランセット・ドラリュー-221

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