形式主義者,指導者であり,多数の著書によって書作品の一種の作り方を教え続けた。奥深い動機はどうであったか知らないが絵画に関する言及が多いのでは無意味ではないだろう。現代書を作るためには伝統から得た型を破らないといけないという考えで,その解放には,ある程度は,用語使いの変化も必要としたのであろう。例えば,西洋文化を消化して,臨書は三つの範疇(古典的,ロマンティック,象徴的)に分けたり,さらに一歩進めて,従来の書用語を替え,(例えば深さという語を立体にしたり)又は「書の美」誌に連載された「書道に於ける作品の纏め方研究」の「明暗の照応と対照」の中に,作品の統一を失わないように暖色と寒色との調和が必要であるから「寒色で宰べられた部分の中へ暖色を少し入れまぜ...故に潤澤に書いた字の間へ渇筆とか肉の痩せた字を混ぜる・・」(第2巻第2号)。同誌にはデュラーの素描あるいは新海竹次郎と北村四海の彫刻作品の図版を載せたり,日本で行なわれたピカソ,イサム・ノグチ等の展示風景記録も併載された。書道雑誌にあらわれた書道界の絵画への関心は「墨美」誌が刊行されてから一層高まってきた。創刊号にはイサム・ノグチを介して得たフランツ・クラインの作品11点が載せられ,書道界にとっては画期的な出来事であったといえる。次号に続けてジャク・ブイヨン,ミロ,アルコプレ(16号に15点掲載された),スラージュ,アレシンスキ,スフォル,ブリエン,ドゴテクス(1954年の32号には仏語論文が発表された),シュナイダー,ザオウキ,それにアフリカのナイジェリア人の画家二人(46号)が紹介された。書的な抽象作品を示した作家の長谷川三郎,須田剋太,吉原次郎等との実際交流を求めて,森田子龍を中心に,書家が上記作家の紹介を通じてアメリカやヨーロッパ芸術家と関係を結ぶことになったことにより東西交流が促進された。「墨美」誌はニューヨークやパリまで送られて欧米芸術界に知られるようになったから,図版又は写真によって作品交換のきっかけけとなった。日本国内にも吉原次郎が結成した具体芸術のグループとの関係が強くなってきて,毎月,大阪の毎日新聞杜では,ゲンビとう座談会に際して現代芸術の開拓者が(書家と画家)芸術の諸問題を議論した。新や確立を求めて,その模索のなかで,「書の美」誌1950年9月号からa部の設立が特記にあたいする。長谷川三郎が選評にあたり,創作,トレーニングの場として始められ,「墨美」誌は刊行されると同誌に移り,1952年12月まで続いた。「書の中の直に造型性を復活するためにも,一度書を離れて造形そのものを純粋に探究する必要がある。・・・(50年代を通して新傾向,抽象書道,墨書というような呼び方があった)への発見-224-
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