たが,絹の状態は,寧ろ第十三幅,第二十幅より良好であった。第十二幅「妙法蓮華経提婆達多品第十二嘉暦二季丁卯歳七月十一日」この下方は,二字目が「エ」,三文字目は殆ど判読不能であったが,四文字目は「隆」に近く読めた(図2)。白念坊如電の報告には,「堪明」「□隻」以外に「痛く消した」署名が見られるとのことなので,これはその三人目の署名にあたるかと思われる。第十四幅「妙法蓮華経従地湧出品第十五如来壽量品第十六嘉暦丁卯十一月十九日」この下方は,理由は不明だが,他の部分よりも濃く真っ白に胡粉が塗られ,さらにそれがひび割れているために,肉眼による表面観察が極めて困難になっている。寺側では昭和の修理の際,第十四幅は特別に短冊銘の胡粉を塗り直し,新たに書いたと伝えている。例えば「勧進僧浄信」等は,胡粉表面に書かれた墨書と少しずれた位置に当初の墨書と見られる墨痕が確認できた。ー,二文字目は判読不能であったが,三文字目は土偏のみ確認できた。四文字目は,「文」または「又」と読めた。「隻」の下の部分である可能性もある。全体として,完全に判読できる部分はなかったのであるが,第十三幅,第二十幅以外にも,銘文の部分の絹の状態が良好な幅があり,それらの幅の顕微鏡による表面観察や赤外線モニターによる観察を集積すれば,現在判読不能になっている部分の解読も可能に思われる。第十二幅などの観察などからすれば,既に解読されている読み以外に,三人目の署名を提出できるようになるかもしれない。本法寺は,富山初代城主前田利次以来,藩主の篤い崇敬を受けており,寛文十二年に外された発装と巻絹には,外題と本法寺十二世日退の筆写した「古表具之裏書」が記され,明応六年(1467)にも修理が行われたことがわかる。近年では,昭和三十七年から四十一年にかけて修理が行われた。第十四幅に見られるように,おそらく近年の修理の際に塗り直された銘の胡粉下地の部分もある。絵の彩色に関して言えば,補彩がかなりあるように思われる。幅によって一定していないが,今回表面観察を許された幅について言えば,第十四幅の補彩が甚だしい。ただし,鎌倉期には見られない形状の霞によっても知られるように,他の幅にもかなII 彩色(1672)に利次の後援によって大規模な修理がなされている。また寛文時の修理の際228-
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