鹿島美術研究 年報第8号
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ルの女王へのいわば頌歌であるから,実際の連作は第2のインプレーサ,「~ょI」この作品に此の上無い魅力を添えていよう。実際多くのインプレーサ本の挿画は木版であり,その場合,原画作者と彫り師は別人であることが普通で,この彫り師とは複製版画家であった。ヴォエリオは創作版画家であり,彼自身の構想に基づいてこの百点連作を版刻したのである。青年時代からリヨンで活躍していた彼は,同市の詩人やユマニストたちと交流があったことが知られている。ヴォエリオがプロテスタント仰に帰依したのは,1550年代の後半,リヨンで同じロレーヌ出身の詩人ルイ・ア=マジュール(v,1515-1574)と逍逗した頃であろうと推定される。プロテスタント詩人デ・マジュールの作品は,1563年以降発禁処分を受けることになるか,亡命生活を余儀なくされた詩人は偽名により作品を発表し続けた。1560年前後,ヴォエリオの作品から突如として神話的諸主題と聖像画が姿を消していることが,何よりも雄弁に彼の改宗を物語っていよう。1566年には,その2年前に死亡したジャン・カルヴァンの2点の肖像を版刻しているc〈インプレーサ文学〉が16世紀中葉から17i仕紀中業にかけて,時代の知的く現象〉として把握せざるをえないはど流行した背鼠には,万象を神学的,教訓的に解釈しようとする中世的感性がなお受け継かれており,流行の諸々の要因や形態的起源の解明は難題であると言わねばならない。しかしなから,直戟的契機のひとつとして,51仕紀の神聖文字解読家ホルス・アポロの『ヒエログュリフィカ』が俗語でも版を重ねるようになったことが挙げられるであろう。人を抽象的思考へと誘うような不可思謡なイマージュによって構成されている神聖文字は,古くから人類最古の椒知を秘めた表滋文字であると考えられており,宗教改革の時代の知識人たちが,イマージュと言語を密接に関連させたインプレーサによって人間と人聞社会も含めた万象に係わる新たな啓示を求めようとしたのも,太古の神話的創造力への挑戦に大いに魅了さ札たからであった。インプレーサはある滋味においては,やはリルネサンス・ユマニズムの遣産なのである。百点連作中の最初の作品「聖なる宮を建立するジャンヌ・ダルブレ」は,ナヴァーという銘とともに剣で胸を貰かれた男のいる場面から開始されている。このイマージュは,自殺した兵士の姿を描いたかのように見受けられるが,主題はパウロの『ローマ人への書筒』VI-5-7に対応している。もし私たちが,キリストにつぎ合わされて,キリストの死と同じようになってい-235-

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