鹿島美術研究 年報第8号
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M. Skibbe氏にも指摘された点で,これの解明なくしては吉田博の成功の原因はつか切符を持ってアメリカに渡ったというこれまでの通説とは異なり,そこには,かなりしたたかな戦略と計算が働いていた,と考えた方がよさそうである。もう一つは,当時のボストン(中心はボストン美術館のフェノロッサ)を中心とする日本熱(東洋の珍らしい国の発見,といった感じの)と吉田博の成功との関連である。これは,ミネアポリスに住む,吉田博のコレクターであり研究家でもあるDr.Eugene めないとも考えられる。単に彼の作品がすばらしかっただけではすまされないのである。今後の研究課題でもある。最後に,当時の吉田博作品探査の手がかりについてである。今回の調査段階で偶然知りあったクリーヴランド美術館の東洋部長Mr.Michael R. Cunningham氏から,帰国後に,オークション会杜クリスティーズの1990年10月16日の売立て目録が送られて来て,その中に吉田博作品9点の売り立てが含まれている旨の情報提供があった。早速,クリスティーズに照会したところ,全部売れてしまったが,過去にも何度か出てきたし,また,これからも,きっと出てくるはずだから,その時は連絡する,とのことであった。当時売れた膨大な数量を考えると,相当のものが残存しており,それがオークションを通じて表面に次々と出て来る可能性があることがわかった。これは,当時の吉田博作品探査の上で有力な可能性を秘めた手がかりとして軽視してはならないものだろう。もちろん,デトロイトやプロヴィデンスの売上げ目録から,購入した人々を一人づつ訪ね歩く,という気の遠くなるような方法も残されてはいるが……。とはいえ,今回のアメリカ調査は,不完全ではあったが,色々の面でみのり多いもので,吉田博研究の核心に大き〈近ずく契機となった。闘鹿島美術財団に対し心からお礼を申し上げたい。242-

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