が進んでいた。特に漆器類は,漆が弱り,割れができ,一部の漆器は割れが木地に到り,螺釧,薄貝青貝,象嵌等漆の地ごとごっそり剥落する寸前のものがかなりあった。又,漆器以外でも,画帖一冊(一桂山人,湖山筆)等は,戦時中,戦後の移動,放置に下敷きになったまま,湿気を極度に受けて,大きく変形,開帖さえできない状態であった。美術品収納場所は,しかも,バラバラの箱や扉のあかない美術館創立時の骨董品的展示ケース内といった風で,目を通すのにも,時間がかかった。埃,蜘蛛の巣,虫等との対立でもあった事をつけ加えておこう。現地に於ける専門家不在は,勿論,東洋美術品に対する市当局や一般の理解のうすい点などの事情から美術品は埃まみれの中で,往年の美も忘れられて,放置,崩壊されるにまかされた運命にあったと云えよう。当地,イタリアのように自国の美術品が豊かであり過ぎる国に於いては,筆者の知る現地美術館の現状からしても珍しいことではない。このような現状に対して,まず対処しなくてはならなかったことは,美術品の調査と整理,価値づけと手入れ,特に緊急を要する漆器類,次いで絵画の修復等である。同時に,美術館の建物自体の改装を迫られている事情に対応して,将来の展示,収蔵に備えて,できる限り保存条件を良好になるよう改装計画に参加していく事であった。私のこれらへの参加は,必要であったので歓迎され,正式に任命もされたが,経済的にはすべて自已負担で奉仕活動という事であった。紙や文房具に到るまで十分でない美術館であった上,自宅と美術館が片道5時間かかる所にあった事なども加わり,私個人の困難は倍増した。あらゆる面で州や市の理解を少しでも得るには,時間がかかった。一方,市民の自発的好意,援助はあり,一婦人の邸に宿泊できる事になり,兎も角,2年位,断続的ではあるが,調査を続ける事ができた。しかし,貴財団の援助が得られる直前には,個人の力の限界がきていたのも事実である。何時,終るかわからない無給奉仕には限りがある。貰財団の援助は,天の助けのような大きな力であった。これによって,過去数年間の蓄積を無駄にすることなく,現在,兎も角,第一段階の成果が得られたといっても過言でない。感謝の意を深く表したい。現状説明が長くなったが,以上のような現実の中で作業は進められた。美術館の抱える問題は,美術品に関してのみ,問題はなくもっと大きな問題と一緒でもある。作業は,当然長期にわたる事となるが,とりあえず,援助金を頂いた一年間の成果を以下に記す。9月)イタリア初の総合的日本美術展ともいえるもので,イタリア内美術館の8コ(1) 合同美術展に参加し,当美術館の存在を外部に知らせる機会となった。(4月一-244
元のページ ../index.html#277