40年後に記憶によって抽かれたものですが,露木の記憶はしっかりしていて,こまか180名に達しています。このうちには,北斎とは直接面識のない人たちも含まれていまこの会議に出て感じたことだが,北斎が西洋で人気のある理由は,なによりもその首尾一貫した芸術的個性,自己主張にある。封建社会の枠のなかでの一介の職人絵師にしかすぎなかったかれに,世界を驚かす独創的表現を可能にさせたのは一体なんであったのか,その点につき改めて考える機会を与えられたことを感謝したい。以下は私の発表の日本語原文である。北斎工房の諸問題スライド左1北斎仮宅図最初にお見せするこの図は,北斎の最晩年,84歳のころの生活のありさまを描いた興味あるスケッチで,現在国会図書館に保管されています。有名な『葛飾北斎伝』の著者飯島虚心のために,北斎の門人露木孔彰が描いたものです。北斎が亡くなって約いところまでよく再現しています。世界に名を知られた巨匠のアトリエにしては,信じられないほど小さな,狭い家です。北斎は,こたつにはいったままで腹這いになって絵を書いています。かれは,このこたつから決して離れることがなく,絵を描いて疲れれば眠り,目覚めればまた描くという生活で,布団にはしらみがたかっていた,と図の上に説明してあります。かなり年をとった娘の「お栄」か,きせるを破れ悩みについてこれを見守っています。そのうしろに火鉢があり,そのかげには,炭俵,食べたあとの菓子や弁当の包装などが柏み上げてあります。壁には,扇面,面帖の類の注文には応じられないという張り紙があります。こんな環境で北斎はひとり制作を続けていたことが知られるのですが,しかしかれは,このようにいつもただひとりで制作を続けていたのでしょうか?決してそうではなかったでしょう。この絵に描かれている情景からはとても想像しにくいのですか,北斎には実際のところ,大勢の門弟がありました。門人はかれが40歳のころからすでにあり,次第に数がふえて,ゆきました。永田生慈氏の研究によると,晩年にいたるまでの間にのべ約すが,それにしても大変な数です。かれらのうちには,北斎に対して殺到する注文に応ずるため,代筆の役をした人もいたと当然考えられます。注文された絵が,濃彩の-253-
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