鹿島美術研究 年報第8号
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3.問題点5-7世紀の間であろう。宮殿らしい大建築物と長大な有蓋の通路は,一時期この島ゲミレル,カラジャ・エレンの両島には以上のような多くのモニュメントがまとまって,しかも後代の改変をほとんど受けずに残っている。この島の性格を推定することは,われわれに与えられた興味深い課題である。恐らく両島は修道院として開かれ,次第に巡礼の訪れる地として栄えたと考えられる。諸聖堂のアプスの背後をめぐる周廊は,巡礼者の諸聖人への崇敬のために設けられたと思われ,ロマネスク時代の巡礼路会堂との類似が注目される。ゲミレルの別名としてこの地方では「アギオ・ニコラオ」の名が伝えられており,同じリキア地方のデムレ出身である聖ニコラオスとの関連が当然想像される。また聖ニコラオスが航海者の守護聖人であったことは,島という立地条件と巡礼との関係をよく説明する。この島が栄えたのは,建築・装飾の様式から見て,またこの地方全体がアラブの支配を受けるようになった時期から考えて,に高位の人物が住んだことを示唆する。それが誰であったかは,ここから近いフェテイエの歴史と関連づければ推測が可能であるかもしれない。島の諸建築物がイスラム建築に転用された跡はほとんどない。これは,地震,津波などによりこの島の繁栄が突然終わったことを想像させる。もしこの想像があたっているなら,今後の本格的発掘による成果がおおいに期待できよう。-271-

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