鹿島美術研究 年報第8号
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辻報(5) 国際会議開催① シンポジウム「アメリカン・イメージーーアイデンティティヘの希求」報告者:大阪大学文学部教授開会挨拶の中で私は,イメージをいかに定義すべきか,アメリカのイメージをとらえる上で示唆的な問題を提起した。つまり,イメージとは文化的に規定されているものであり,例えば絵画においてリアリズムと呼ばれているものも,リアリティに対する我々の知識のレベルで対応しているにすぎないのではないかということである。このように,類像性によって現実を想起させるようなイメージ,プラトン的なイメージを棚上げにした上で,私はアメリカのイメージにおけるリアリズムの伝統を指摘,ェドワード・ホッパーやリチャード・エステスの系譜上にあるエリック・フィッシュルの絵画に見られるアメリカン・リアリズムのイメージが奇妙に絵の中で完結しており,観者の気持ちに係わりなく,絵の場面の出来事が進行していくと述べた。アメリカのリアリティーは極めて「物語的」であることがよく理解された。アメリカン・イメージが白人による白人のイメージであることがある種の理念として根づいてしまっているわが国にあって,アメリカにおけるマイノリティのイメージについて言及したジェリー・ヨコタ氏の講演は非常に示唆に富むものであった。演劇作品「スプーク・ショウ」が紹介される前に,その歴史的,文化的背景として,植民地時代以来のイメージにおける他者性が問題とされ,次いで,ミンストレル・ショウやサンボの絵本の中で,黒人のイメージが黒人不在のままで作り上げられたことが述べられた。黒人女優が一人で演じる「スプーク・ショウ」は,いわば,そのような白人に与えられたイメージからの解放をめざす闘争劇であるが,ョコタ氏が,観客が参加してアイデンティティを探り当てるという特質,身体性,物質性の中に演劇の独自性を見い出していたのが印象的であった。しかし現実にはそのような身体性,物質性を,ともすれば大衆は忌避する傾向にある。その意味で映画は大衆の欲望を最もよく反映したメディアである。そしてさらに,濱口幸二氏が指摘するように,映画は「反映するものとしての鏡」であるだけでなく,「モデル,パターンとしての鏡」,つまり古い価値観にないものを訴えかける力を持つものである。映画の社会的,文化的側面は,ある種の理念に覆いつくされることによ成史-282

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