③ 「金銀泥絵の探求ー一太田切から宗達まで」在する。いずれも,鎌倉新仏教布教や支配者の動向も仏師の地方活動に何らかの関係を持つものと思われ,これも今後の研究課題である。室町時代には,かえって畿内からの波及仏像は数が少なく,地域的な造仏が盛んになる傾向をみせ,技巧的にも地方性を顕著にみせるものが多くなる。中国大陸や朝鮮半島とわが国との接点でもある九州には,中国・朝鮮半島の在銘金銅仏も,北魏仏や高麗仏,明代後期の銅仏などが見受けられ,九州への移入の時期の問題とともに注目される。報告者:静嘉堂文庫学芸員玉晶敏子概要:て,詩歌集や経文を彩る技巧として発達したが,その大部な遺品として「太田切」をまずとりあげる。景物画巻としても見事な出来映えの作品で,「桂宮本万葉集」とともに日本の金銀泥下絵の出発点にふさわしい。この「太田切」より宗達の金銀泥絵の登場までの道筋を,以下の要領でたどってみることにしたい。今回はとりわけ,従来は動向の不分明であった15■16世紀の金銀泥絵について,連歌懐紙を中心に扱うことにする。最後に,中国から蒔かれた種子が日本の風土に根付き,時代の進展とともに様々な花を咲かせて変容し,宗達に至るまでの意義についてまとめてみたいと思う。(1) 景物画巻としての「太田切」唐宋の彩箋の影,金銀泥絵の流布範囲院政期への展開(2) 14世紀中ごろの様式転換尊円親王筆「湯次講表白残巻」(観応2年=1351)から後円融院哀翰「新撰朗詠金銀泥絵は,中国では4世紀末の南斉の東昏侯の時代に紫閣の殿上に描かれたという記録があり,その後は朝鮮,日本へと広がっていったモノクローム絵画のー技法である。金銀泥絵の主なレパートリーには,経絵という仏画があるが,この研究でとりあげてみたいのは,書の料紙の装飾として細やかに描かれた料紙下絵の金銀泥絵である。料紙下絵の金銀泥絵は,平安時代の王朝社会におい-16
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