鹿島美術研究 年報第8号
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3.禅宗独自である頂相という名称,用途などは,造形の本質とかかわりなく,後に2. しかし,唐宋変革に伴なう杜会構造の変化は,肖像画の需要の底辺を大幅に広げ3.その肖像画も,影堂に掛けるような故人の追慕像や,モニュメンタルな用途をこ2.造形表現としての頂相は,禅宗特有の表現ではなく,一般の肖像画と作者,表現4. このような肖像の多量な需要は,当然,多数の専門画家の発生をうながした。北このような枠組を組み立てている細部,例えば,頂相という名称の発生の時期,法の授受の証明としての用い方がいつ頃から生じたのか,掛真の儀式と俗人の葬礼との関係など,明らかにされていない側面も多い。今回研究の過程で,それらについて二,二の解答をえたが,本計画は,そうした細部の事実の解明ではなく,上述の枠組自体の見直しにある。そのための方法として,次のような見とおしと仮説を,あらかじめ設定した。1.頂相についての枠組を作りだしている,先述の思考の順序は逆立しており,まず,頂相の造形表現を検討してみる。形式は共通するものである。外側から附与されたものにすぎない。今述べたような仮説を実証するためには,中国肖像画の歴史的展開を検討することが前提となる。しかし,実は中国肖像画史の研究は未開拓の領域である。その理由は単純で,,元以前にさかのぼる遺品がきわめてまれであるということにもとずく。そのため,その研究は,僅少な遺品の精査と,それを補足する膨大な文献資料の検索が基本的な作業となる。今回,宋,元,明初の文人の文集を主な作業対象として,目下,その4/5程の文集より肖像画史料の抽出を完了し,合わせて僅少な数点の遺作の調査を行った。その結果,宋元時代の肖像画の歴史について,以下のような見とおしを得ることができた。1.中国の肖像画の歴史は古いが,専門画家の多数の出現は唐代からである。ていった。かつての皇族,貴族に代わって,宋代以降,新しく台頭した文人官僚,その予備軍,その他の階層の人々も,肖像画を要求するようになったのである。えて,社交の手段としてたがいに贈答しあったり,僧侶達も,自坊に自己の肖像を掛ける風習をもつなどの私的な要求にもとずいていた。宋末期頃,この傾向は顕著で,各地にそのような画家が出現している。彼等はいかにも肖像画家らしい特有な号,例えば,肖斎,肖堂,照堂,水鏡,鑑堂,鏡堂など288

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