鹿島美術研究 年報第8号
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5.こうした状況は,一方で単独,集団像,顔の向き,ポーズ,背景の附与などのさ7.当時の一般的な肖像画は,正装して威儀をただし,一点を凝視したような姿を描2.ついで,北宋時代に入り,一般の肖像画熱に刺激されて,禅僧の肖像画も盛んに4.これら肖像の作者は,一般の肖像画家と共通する。両者は造形的に同じもので,6.画論の中心論点は,不可視の神をどうやって,可視的な形の中にとらえることが3.ただ,二人の活躍期と同じ頃,頂相という名称や,法の授受に肖像を附与すると5.当時の肖像画論の中で,威儀を正した公的肖像画が,伝神表現として欠けるとこと称している。こうした点に,彼等の自覚と誇りをうかがうことができるし,彼等は注文をとるために相互に技をきそったはずである。まざまな形式を生みだしたが,他方,肖像画に対する人々の意識を刺激して,多くの肖像画論を生みだすことになる。できるかという方法論である。いたものであった。これに対して,肖像画論家達は,神は目晴にあるとする顧惜之の伝神論を回顧する一方,新しい観点,個人的な特徴,動作,顔の向き,背景や道具立の工夫によって神はとらえられるとする主張や,人間の観察方法の工夫,画家の前でかしこまった姿ではなく,対象を人混みの中で,あるいはさりげない雑談の中でひそかに観察することによって,その人物の神の所在がつかめるのだとの意見も提出されている。さて,以上のような宋代肖像画の概略をもとに,造形表現としての頂相を観察してみるならば,次のように概括することができる。1.禅僧の肖像画が描かれたのは唐代にさかのぼる。描かれるようになる。この時期,大慧宋呆と宏智正党の二人は,特に大量な肖像画を描いたか,その制作の動機は,後代の用途(法の証明,掛真)にもとずくものではなく,とくに前者の依頼者のほとんどが俗人であるように,多様な私的なそれにもとずく。いう用例と,制度が生じはじめている。そこに禅宗独自のものは考えられない。ろがあると批判されているように,禅僧の中にも,自已の肖像にそのような批判を下し,さまざまな表情,姿態の表現を要求している例もある。また多様な形式(自然景の附与,集団像など)が作られた点も,一般肖像画と同じである。289

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