鹿島美術研究 年報第8号
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6.このことは,当時の一般的な頂相が俗人の公的肖像画と同じような変化に乏しい,7.やがて南宋時代にいたって,上述のような頂相の用途や機能が確立したが,このことか頂威儀を正した表現だったことが想像される。相の造形表現に変化をもたらしたとは考えられない。それは外側からの意義づけにすぎない。むしろそれは,頂相の多様な展開を規制するように働いたと思われる。以上細部については不明確な点も多いが,頂相についての概略を描くことができた。今回調査の過程で,遺品の新資料,文献上のさまざまな新知見に出会ったが,最後にその中から一例をとりあげて記すことにする。東福寺塔頭海蔵院の虎関師錬像は,よく知られた作品で,新出の遺品というわけではないが,しかし,これを上述したような広い展望の中に位置づけるならば,多くの問題を抽出しうる。この作品は,十四世紀中頃,当時の京都政界の実力者高師直の披官,河津氏明によって中国に注文され,制作されて日本にもたらされたものである。画隅には「鏡堂」という画家印が押捺されている。この名は先述したように,肖像画家特有の号である。ところで,元末明初の文人烏斯道は,その文集『春草斎集』の中で,鏡堂号をもつ肖像画家について記している。虎関像の作者はこの人物に比定できるだろう。彼は慈硲の人で,本名は王直翁,字を子愚といった。肖像画家としてその土地で著名で,鏡堂という号をもつ職業画家である。造形的に本図を観察すると,おそらく,制作にあたって鏡堂に提示されたであろう紙形にもとずく,立体観をもった見事な写貌と,下に肉体の厚みを欠いている平画的な衣服表現からなっている。これは今日遺存する宋元時代の頂相,他の宗派の肖像,僅少な俗人のそれとも共通する表現である。これは当時の肖像画家達の制作方法を暗示する。写生による頭部と,パターン化した社会的身分を表わす服装,道具立を結合して画像を作りあげる方式である。いわば着せかえ人形的方法である。こうして彼等は,多様な身分の大量な需要に敏速に対応したものであろう。しかし,この表現は,当時,取神から遠ざかる道として批判された方式であった。逆にいえば,本図は,ごく一般的な平均的な肖像画なのである。中国肖像画史の中で,以上のように評価される本図も,中世の日本人にとっては,迫真的で,新鮮な驚きであったにちがいない。当時の日本僧は,中国の肖像画に接して,立体把握の見事さに驚いているが,ここに肖像表現に見られる日中の相違と,その実体以上に日本に与えた影聾という,頂相研究の別な側面が現われてくるのである。290-

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