鹿島美術研究 年報第8号
327/364

ふさ•あをひ(以上源)」とあるのが注目できる。しかし,紫の上が碁盤の上に立つこ2.碁盤のうえの紫の上(巻9葵)盤二山菅・山橘•海松•青目の石二置之他。是等を御髪にはさみそふる也云々」とあ注釈書では,九条植道の『孟津抄』(天正3年[1575]成立)に「からうす」のことが見え,『白氏文集』の五言絶句「山下宿」を引いている。また,御嶽精進のことは,四辻善成の『河海抄』(14世紀),『孟津抄』などに見える。これは本文にある源氏の歌「優婆塞が行ふ道をしるべにて来ん世も深き契たがふな」を引き出すモチーフになっている。さらに,一条兼良の『連珠合璧集』(文明8年[1476]頃)のなかの,連歌のための源氏寄合に「弥勒とアラハ,……みたけさうし・タ顔の宿(源)」,「うはそくとアラハ,……みたけさうし」とあるのが注目される。賀茂の祭の日,14歳になる紫の上の髪を源氏が削ぐところ。碁盤のうえに立つ紫の上を描く例は,大倉集古館本の色紙,旧団家屏風(もとの屏風の右隻第2扇),旧藤井家屏風の3例をかぞえるだけで,土佐派などの作例にはこうした図様が見られない。これに対し,17世紀中期の絵入り版本には例が豊富である。慶安3年(1650)版の絵入『源氏物語』,万治2年(1659)序ー華堂切臨の『源氏綱目』,雛屋立圃の『十帖源氏』と『おさな源氏』などがその例で,いずれも碁盤のうえに紫の上が立つ図様である。問題は,碁盤のことが標準的な本文テキストに登場しないことである。注釈書では,九条植道の『孟津抄』と,これを引用する中院道勝の『眠江入楚』とがわずかに触れているだけである。それは,源氏の歌「はかりなき千尋の底のみるふさの生ひゆく末はわれのみぞ見ん」の注で,「髪そきの調度の中に海松を一ふさくはふることあり。碁る。また,『連珠合璧集』の源氏寄合に「髪そきとアラハ,紫の上・千ひろの海・みるとがどのようなコンテキストから生成されたのか,という肝心の問題については明らかにできなかった。今後の検討に侯ちたい。この問題に多少つけくわえると,碁盤をめぐる説が源氏解釈の主流,実隆周辺にあったことも想像できる。九条植道の祖父三条西実隆の『弄花抄』や三条西公条の『細流抄』に碁盤のことが見えないものの,植道には実隆の源氏講義を聴く機会があったからである。その点,公条・実枝の説をうけつぐー華堂切臨の『源氏綱目』(1659)が葵の巻の図様を「紫上14歳になるをごばんにのせたてらせ給ふ源氏廿ー歳にてびんをそぎ給ふ……」と説いているのが手がかりになる。-292

元のページ  ../index.html#327

このブックを見る