鹿島美術研究 年報第8号
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年11月,タンネル画廊でのファン・レース夫妻との三人展)から1917年12月のグルーの均質な表面にほどこされた浮彫りではなくて,厚みをもつ板状の素材を複数組み合わせた構成物であり,しばしば彩色をともなう。これは19世紀以前の伝統的なレリーフの延長線上にあるのではなく,またその伝統の否定から生まれたものでもなくて,絵画の領域から派生した形式である。アルプがこの形式を選択した意味を考えるには,彼がいつからレリーフ作品の制作を始めたかをあらためて検討する必要がある。初期のレリーフは制作当時に年記が残されなかったために,確実な年代決定はなされていない。1981年に発行されたアルプのレリーフ作品総目録(ベルント・ラウ編)は,それ以前に発表されたアルプ論と同様に,最も早い作例を1914年としているが,この目録の初期作品の年代は第二次大戦後に作者自身と関係者の記憶に基いて推定されたもので,必ずしも信頼度は高くないのである。チューリヒ・ダダの時代におけるアルプの制作活動に関しては,彼が参加した展覧会の出品リストと,『キャバレー・ヴォルテール』『ダダ』などの雑誌に掲載された作品図版,彼の作品に対する批評文を再検討することが最も確実な手掛りとなる。それらの資料を参照した結果,ダダ運動の初期におけるアルプの主なメディアはレリーフではなく,切り紙のコラージュと,彼がデザインし他の作家が制作したタピスリーおよび刺繍であったことを確認できた。チューリヒで初めて参加した展覧会(1915プ展まで,彼はレリーフを出品しておらず,1918年9月のヴォルフスベルク画廊でのグループ展において初めて3点のレリーフを発表している。また,1916-18年の雑誌に発表された彼の作品はコラージュ,タピスリー,木版であり,レリーフ作品を最初に掲載したのはフランシス・ピカビアが1919年2月にチューリヒで発行した『391』第8号である。そこには1918年9月に出品されたレリーフの一点(Rauno. lOa)の図版が掲載されている。従って,ラウの目録に1914-17年の制作として登録されている作品の大半は,実際には1918年以後,早くとも1917年後半のものと考えるのが妥当であろう。仮にそれ以前にレリーフの制作を手がけていたとしてもおそらく数はわずかであり,発表する作品の形式としてはコラージュやタピスリーの方を重視していたことは確かである。ところで,木製レリーフというアルプの新しい形式の発表が,トリスタン・ツァラの『二十五編の詩』(1918年6月)の木版挿絵における彼の新しい形態言語の発表とほぼ同じ時期に行われていることは注目に値する。それ以前に発表されたコラージュや-312

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